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短編集86(過去作品)

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「私、臆病なのよ。彼と別れると決めるまでは毅然とした態度をとっていたんだけど、いざ別れるとなると寂しくて、誰かにそばにいてほしいし、分かってくれるかしら?」
 沙織が初めて見せる人を慕う表情。とても綺麗だ。俊介にとって理想の女性なのかも知れない。
 今の俊介も少し臆病になっている。臆病な時は勘が鋭いため、それ以降の自分が見えてきたりする。頭の中に残っているのは、この間のコンサート帰りに見た二人の姿だった。
 あまりにも印象的である。あの時の沙織と今日の沙織は明らかに違う女性だ。
――相手が違えばここまで女は変われるものなのか――
 それは沙織に限ったことではないかも知れない。男にも言えることだとすると、俊介も相手によって露骨に態度が違うのだろうか。
 人によって態度を変えることはあまり好きではないことから、自分のまわりに残った人は、本当の自分と正対してくれる人だけである。だからと言って、同じようなタイプだったり性格だったりするわけではないところが面白いものである。
「友達はたくさんいればいいってものじゃないぞ」
 と言っていたのは他ならぬ俊介である。
 歳三も沙織も正治もこの意見には賛成だった。お互いに親友であっても、自分たちのプライベートを冒すことはなく、いい関係だった。その中で歳三と沙織が付き合い始めたのである。仲睦まじいカップルとして写っていたが、一抹の不安があったことも隠しきれない。
 沙織は今まで知っている沙織ではないことがどうしても引っかかった。
「もう私、飲めないわ」
 そう言って身体を預けようとする。今までの俊介であれば、女性のそんな態度に自分への気持ちを考え、抱いたとしても一日限りと考えていた。
 実際に今までにそんな相手もいた。一晩限りの関係となってしまったが、冷静に考えればお互いに気持ちの高ぶりを抑えることができず、気持ちの赴くままの行動だった。
 後悔しているわけではない。その相手が一日だけの関係だっただけだ。次の日になれば急に冷めてしまった。元々冷めやすい性格なのかも知れない。相手の女も急に態度が変わった。身体の関係になったことが原因なのか、それとも一日経ってしまって考えると、急に冷めてしまうのか、とにかく変わってしまったのだ。
 それで、ショックを受けるほど俊介は純情ではない。
――所詮、そんな女だったんだ――
 と思えば腹も立たないし、俊介自身、一夜だけの関係に不満はなかった。
 沙織の場合はどうだろう。前から知っている女であるし、好きだったことも事実だ。しかも失恋した後、自分に靡く可能性は限りなく高いと考えられる。
 だからといって簡単に抱くわけにはいかない。沙織に感じている妖艶さはただならぬものだと自分で意識してきたではないか。
 他の女が同じような態度を取るのと、少し違う。他の女にされた時よりも自分が臆病になっているように思えてならない。知らない女の方が後ろに誰がいるか分からないという意味で怖くなるが、その感情とは違った気持ちが俊介を臆病にする。
――歳三は最初沙織を抱いた時、どんな思いだったのだろう――
 二人が初めて愛し合った日が分かるような気がする。もちろん、二人とも隠してはいたが、態度で分かる。二人とも、よそよそしさが漂っていて、お互いに目を見ようとはしない。俊介に対しても目を合わせようとしなかった時があった。まるで喧嘩をした後のようだが、そんな雰囲気とも違っている。
 顔が上気していた。お互いに初めてではなかっただろうが、やはり初めて身体を重ねた後は、必要以上に意識していた。沙織には恥じらいを感じたが、歳三には、最初に一体何を感じたのだろう?
 だが、今なら分かる気がする。あれからの歳三は明らかに臆病になっていた。何に対しても臆病で、そう、この間のコンサートの帰りに見たあの顔に象徴されるような雰囲気そのままの顔をしていたように思う。
 以前はそれが臆病からくる顔だとは思わなかった。しかし、この間はハッキリと臆病な顔だと分かったのだ。それも、振り向いた瞬間にである。
 今の俊介は自分が似たような顔をしているのではないかと感じている。顔が上気しているのを感じるが、それはアルコールのためだけではない。ましてアルコールの勢いで、女性を抱いてしまう時の感情ともかけ離れている。
 今、俊介は自分に趣味のなかったことを後悔している。
 趣味を持っていればここまで臆病になることはないと感じたからだ。
――少なくとも寂しさからは開放されるに違いない――
 寂しさと臆病さは違うものだ。しかし、どこかで繋がっていて、寂しさが臆病に拍車を掛けることだってあるはずだ。寂しさを解消されれば少しは臆病にならずとも済むだろうし、同じ臆病でも、もう少し違った感覚になれるだろう。
――私は一体誰が好きだというのだろう――
 いつもそう考えた時には一人だ。いや、考えていない時も一人である。孤独感に慣れているのか、楽しんでいるのか自分でも分からない。
 歳三もいつも一人だったように思える。臆病という影に隠れていて、しかも沙織という存在があったので分からなかったが、この間の顔は明らかに孤独を含んでいたように思える。
 どうして分かったかというと、最近鏡をよく見るようになった俊介だが、その顔と同じ雰囲気があったのだ。振り向いた瞬間に後ずさりしたくなった気持ちの一つは確かに臆病な顔にビックリしたのもあるが、もう一つはまるで自分を見ているようで気持ち悪かったからだ。
 最近、自分の顔がとても気になる。表を歩いていても、仕事をしていても、いつも誰かに見つめられている感覚に陥るのだ。誰かに見られているからというよりも、自分がどんな顔をしているかということの方が気になるのだ。
 友達が少ないこと、どんどん友達を失っている時と、気持ちが似ているように思う。あの時は、
――せいせいする――
 と思っていたが、一抹の不安もあった。しかし、それでもよかった。
 今でも臆病だという気持ちに変わりはないが、それでもいいと思っている。開き直りかも知れない。
 それから三日経って、沙織が自殺未遂をしたと警察から連絡があった。三日前に俊介と会っていることを沙織が話したのだろう。しかし、さらにもう一つ俊介を驚かせた事実があった。
 これはダブルでショックを俊介に与える事実だった。
「あなたは、東正治さんをご存知ですか?」
 刑事が思わぬ名前を口にしたからだ。
「ええ、知っていますが、彼がどういうことで?」
「彼女の自殺未遂現場が発見されたのが、東さんの部屋だったんですよ。幸い、命には別状なくて病院で手当を受けています」
 頭の中がものすごい勢いで回転を始めた。
 回転が速いと色はどんなにカラフルでも真っ白になってしまう。それは学生の頃、物理の授業で先生が実験にと持ってきた円盤を見せられた時のようだ。今、頭の中でその時の円盤が音を立てながら回っている。
 準備として、円盤の中央に二つ穴が開いていて、両端へ紐を通すようになっている、両側の紐を手に持って目の前で回して見せた。そして、巻きついた紐を一気に両側に引っ張るようにすれば、その反動で勢いよく円盤が回る仕掛けになっている。
作品名:短編集86(過去作品) 作家名:森本晃次