短編集86(過去作品)
そういえば呑んでいて無性に大きな気持ちになる時があったが、ほとんど正治と一緒にいる時だ。内容は覚えていない。何しろその後にいつも呑みすぎて意識が飛んでしまうからだ。意識がなくなるほど呑むなど、今まででは考えられないことで、今からでもないだろう。理性という殻に閉じこもっているからなのか、それとも、臆病になるからなのだろうか。
酒を呑むと気持ちが大きくなるが、俊介の場合は、呑みすぎると却って臆病になってしまうようだ。いきなり我に返ることがあり、まわりの目が気になってしまう。冷めてしまうというべきで、酒に弱いからだと思っている。
ある程度まで気持ちよくなってくると、自分の限界が分かっているだけに、それ以上は無意識にセーブをかけてしまう。誰にでもあることなのだろうか。
最近は、その正治とも会っていない。仕事の関係で、北海道にいるのは知っているが、卒業してから連絡を取り合っていたのも、六月までだった。思ったより正治はマメで、ほとんどが向こうからの連絡だった。
正治のことを忘れかけていた頃にバッタリ出会ったのが、沙織と歳三である。正治のいつも真剣な表情を思い出しているからか、二人の顔があまりにも無気力に思える。ひょっとして俊介自身が一番無気力な顔をしているかも知れない。
コンサートの日からちょうど一週間が経ったある日、昼過ぎに思わぬ人から電話が掛かってきた。聞き覚えのある女性の声は、知っているそれよりも、さらにハスキーに聞こえた。元々ハスキーではあったが、さらに低い声は泣いた後の声のようにも聞こえる。鼻を鳴らしているのは、風邪を引いたからか、泣いた後だからなのか判断がつかなかった。
内容を聞いてみると泣いた後のようにも聞こえる。
「実は、歳三さんと別れちゃったのよ」
分かってはいたが、相談に乗ってほしいというのだろうか。なかなか本題を切り出そうとしない。
「今日、お時間おありかしら?」
「ええ、いいですよ。今日は定時に終われそうなので、七時頃に駅前の喫茶「モンロー」で会いましょう」
喫茶「モンロー」にはモーニングサービスを食べに何度か寄ったことがあった。朝に喫茶店というのも優雅な気持ちになれて、たまにはいいものだ。
クラシックのメロディを奏でる店内は、ルネッサンス風の造りになっている。今までにいろいろな喫茶店に行ったが、大学の近くにあった似たような喫茶店がお気に入りでよく行っていたので、喫茶「モンロー」にも、朝早く出かけて立ち寄ることが多くなっていた。
店に入ると、すでに沙織は来ていた。まだ西日が遠くの山を焦がしている時間で、道を歩く人の影が、足元から長く伸びている時間である。沙織は窓際に座り、コーヒーカップを両手で口に持っていきながら、ボンヤリと表を眺めていた。一体何を思っているのだろう。
「いらっしゃい」
ガランガランと扉についているか湧いた鈴の音が、店内に響き渡った。皆こちらを振り向いたが、沙織だけはしばし表を眺めていた。まったく無表情のままである。
「待ったかい?」
時間に遅れることが嫌な俊介が、今まで人に言ったことのない言葉だった。
「ううん、それほどでもないわ。ここから人の流れを見ているだけでも結構楽しいものよ」
流れているクラシックを聴いていると眠くなりそうだ。表の慌ただしさに比べれば、中は落ち着いた雰囲気に包まれている。
コーヒーを注文し、来るまでしばしの沈黙が続いた。実際の時間よりもかなり長く感じられたような気がして、店内に溢れているコーヒーの香りだけを楽しんでいた。
運ばれてきたコーヒーに一口口をつけると沙織は待っていたかのように、
「俊介くんが私のことを好きだったっていうの。知っていたわよ」
普段から「さん」付けで呼ばれていたので、急に「くん」付けで呼ばれると、目下の者を相手にされているような気分になる。元々「さん」付けされるのも、他人行儀であまり気分のいいものではなかった。
「そうかい? でも今はどうなんだろうね」
高飛車な態度に少しムカッと来たが、ここで冷静さを失うのもおかしなものだ。わざと他人事のようにおどけて見せたが、大袈裟になりすぎていないだろうか。
他の人が聞いていれば、腹の探りあいとしているように見えるだろう。しかし、学生時代からお互いに自我を持っているのを知っていたので、相手の自我を尊重しながら自分を出そうとする。それが腹の探りあいのように見えるかも知れない。
しかし、昔からの沙織を知っている人は、これでもだいぶやわらかくなったように感じるだろう。特に歳三などはそう思うかも知れない。最初付き合い始めると聞いた時も、
「お前、大丈夫か?」
と聞いたくらいだ。気性の激しさは以前から悩みを聞いていたりした俊介には分かっていた。
歳三は真面目なところがとりえの男だった。バカ正直といってもいい。そこが魅力なのだが、沙織のような女性が最初から歳三のような男の前で、自分の本性を出すとは思えない。沙織も優しいところがあり、きっと最初は自分を隠して、いかにも歳三に合うような素振りをしていたに違いない。
最初はお似合いのカップルだった。歳三を立てていたからこそ、理想のカップルに見えたものだ。
――取り越し苦労だったか――
と感じたくらいの紳士と淑女に見えた。その時、
――綺麗だな――
初めて感じた沙織への想い、それはもったいないことをしたという思いも幾分か含まれていた。本性は気性が激しい女であることは分かっていたが、淑女の面を見ていると、さらに沙織をもっと知りたいという衝動に駆られたのも事実である。
今、喫茶店で俊介の前に鎮座している沙織は、そのどちらでもない。今まで俊介が知っている沙織のイメージからは少しかけ離れていた。大人の色香が漂っているように思う。香水の香りも感じられ、今までは化粧をしなくても綺麗な顔に、ほんのりと施している化粧はさらに大人の魅力を醸し出させるものだった。
だが、俊介は直感した。
――自分には合わない――
以前の沙織であれば、今の俊介なら好きになったかも知れない。歳三との時間が長かったように思えて、その時間を取り戻すのは容易なことではない。元々、誰かのものだったと思うと、相手への気持ちは冷めてしまう俊介は、沙織を異性として意識することはないだろうと、自分の中で考えていた。
今まで俊介は女性を見る時、その比較対象として後ろに沙織を見ていた。ずっと沙織が意識の中にあったといっても過言ではない。
少し歳三の話になったが、本当に沙織は歳三の話をしに来たのだろうか?
その後、場所を移動した。沙織が知っているというスナックに行ったが、そこでの沙織は従順な女に変わっていた。
「ここには歳三さんを連れてきたことはないわ。いつも一人で来て飲んでいくところなの。でも今日は一人になりたくなくて、そして誰か男性に一緒にいてほしくて、こんなのって今までにはなかったわ」
「飲みすぎなんじゃないか?」
さっきからカクテルを水のごとく飲んでいた。強い方だというのは見ていても分かるが、それにしても真っ赤な顔が印象的だ。
作品名:短編集86(過去作品) 作家名:森本晃次