桜咲くころ(上) 第45回オール讀物推理小説新人賞最終候補作
「おぬいを気にかけてやれと」
「……おぬいとは、どちらの?」
「蛤町の大黒店に住む後家だ。針妙で、齢は五十か五十一だ」
「お義父様のお知り合いですか?」
「三十一年より先、うちにいた女中だ」
七尾が平井の家に嫁してきたのは五年前のことだから、おぬいを知らない。
「お義父様と今もお付き合いがあったということですか?」
「与吉によると、やめてから一度も会ってねえそうだ」
「……あら、どういうことでしょう」
「だから困ってる。親父殿からなにか聞かなかったか」
「おぬいさんという名前は一度も」
「そうか……」
文史郎はまた重いため息をついた。
「お義父様がそうおっしゃったのですね? おぬいを気にかけてやれと」
「そうだ」
「だったら、そうなさればよろしいではありませんか」
「かんたんに言うな。気にかけるとは、いったい、どうすればいいんだ」
「ときどきその人のところに顔を出したり、お話をしたり」
「見ず知らずの、ただのばあさんだぞ、何を話す」
「今日も蒸しますねとか、明日も暑くなるでしょうかとか」
「そんなもの、ひと言ふた言で終わっちまわ。あとは気まずい黙りだけだ」
「お口は乱暴なのに、中身は存外、細やかなんですね」七尾は愉しそうに笑った。「そこまでお困りなら、いっそ、じかにお訊きになってしまったら
いかがです?」
「何を?」
「今際のきわに父がこう言ったが、心当たりはないかと」
目からうろこがぽろりと落ちた。
「……本人に?」文史郎の声が明るくなった。「そうか、気に入った。おめえ、いいことを言う」
「ばあさん、いるかい?」
声をかけて腰高障子を開けると、縫い物をしているおぬいがいた。狐につままれたような顔で、「はい…」と文史郎を見上げた。
今では荒らされた部屋もすっかり片づいて、殺風景にさえ見える。
「今いいかえ?」
「はい。何でございましょうか?」
「とくべつの用じゃねえ。ついでに覗いてみただけだ」
「そうでしたか、それはそれは」
急に明るい声になって、広げていた仕立物を脇に押しやり、土瓶から麦湯を注ぐ。
質素な部屋である。
おぬいは、ひっつめの丸髷に朱色の塗り箸を一本、笄のかわりに挿している。それが粋なのか、つましさからくるのか男の文史郎にはよくわからないが、
江戸の女の心意気を見たような気がした。
「すまねえな」腰を下ろし、出された麦湯を取る。「その後、変わったことはないかい」
「はい、おかげさまで。盗む物がないとわかったのでしょう」
文史郎は、湯飲みを持ったまま、話をどう切り出したものか思いあぐねる。
「今日も蒸すなあ」
「ここは堀を伝って海風がきますから、少しはしのぎやすいんですよ」
長屋のすぐ裏は堀川である。
「そうかい……」
話が終わってしまった。
見ると、こんなところでは滅多にお目にかからない黒漆塗りの立派な衣桁が立っている。
「商売柄だな」
「仕立物の仕上がりや辻褄の合わせを見るときに使うんですけど、それよりも、仕上がった着物を掛けて眺めるときがなによりも仕合わせです」
「他人様の着物だろう?」
「そうなんですけどね」おぬいは薄く笑う。
衣桁の前に追いやられた縫いかけの着物は、花筏を染めた見るからに上物の着物だった。川を下る筏に桜の花が舞い散るあでやかな図柄である。
「桜か、いいな」文史郎は言った。「今年も、うちの桜は見事だった」
「毎年ご自宅の庭でお花見が楽しめるとは、贅沢なことでございますね」
「それはもうすぐかい」
「はい?」
「着物の仕上がりさ」
「あと、二日三日というところでしょうか」
「衣桁に掛けて、季節はずれの花見と洒落るか」
「それはよろしいですね」おぬいは楽しそうに笑った。
またもや話の接ぎ穂を見失い、文史郎は黙り込んでしまう。だんだん腹が立ってくる。訊け、早く訊け、なにをぐずぐずしている。
文史郎は、重い口を開いた。
「うちの親父は知っているな? 平井嘉之助だ」
「はい」
「先日、みまかった」
「それは……ご愁傷様でございます」
「今際のきわ、親父が言ったんだ。おぬいを気にかけてやれと」
「大旦那様が?」
「どういうつもりでそんなことを言ったのか、とんとわからねえ。気にかけろとはどういうことだ?」
「そのようなことを聞かれましても……」
「やめてからも、平井の家の誰かと親しくしていたのかい?」
「いえ。どなたともずっと無沙汰を…」
「それだったらなぜ、親父はそんなことを言った」
「わかりません」
ほんとうにわからないようだった。
「念のために訊ねる。あんた……、うちの親父と 」
「口にして良いことと悪いことがあります」ぴしりと言った。
思いがけない激しさに、文史郎はたじろぐ。
「そう怒るな。気を悪くしたら謝る。念のため訊いてみただけだ」
「それにしてもあんまりです。大旦那様や亡くなったご新造様にもご無礼でございましょう」
「ちげえねえ。与吉にもそんなことがあるはずがないと言われた」
それでも機嫌は直らないようである。
文史郎は、ひるむ気持ちを奮い立たせて訊く。
「頼む、喉に魚の骨が引っかかったみてえに落ち着かねえんだ。心当たりはねえかい」
考えこんだおぬいが、やっと口を開いた。
「わたしが暇を出されたのは、不始末をしでかしたからです」
「……不始末? 何があったんだい」
思わず手にしていた茶碗を畳にもどした。
「御家の大切な茶碗を割ってしまったのです。大旦那様は、そのときのことを気にかけてくださっていたのでしょうか。思い当たるといえば、それくらいしか……」
「たかが茶碗くらいで暇を出すとは、親父殿もひでえな。恨みに思ったろう」
おぬいは首を振った。
「御家に伝わるだいじな家宝でしたから」
父は、己に厳しかったぶん、他の者にもそれを強いた。妻を亡くし、病の床で我が身を振り返ったとき、そのことに思い至って悔やんだのかも知れない。
遺言の奥に潜む無気味なものの正体は、引っ張り出してみればなんのことはなかった。ほっとした反面、拍子抜けした思いで、文史郎はおぬいの家を出た。
たまにはあの婆さんのことを気にかけてやるか。
思い返せば、父親孝行らしい父親孝行をしたことがない。遅きに失したが、ささやかな罪ほろぼしに、おぬい参りをしてみよう。
お多福の源八におぬいの探索を頼んで五日がすぎていた。
その日、役目が終わって永代橋のほうに向かっていると、櫓下を過ぎたあたりで音もなく近づいて来る者があった。
「旦那」
源八のところの平太だった。文史郎が通るのを待っていたらしい。
「おう」
「ちょいとお話が」
「何かわかったかい」
「へい」
「一杯やるか」
永代橋を渡ったところで、与吉を先に帰し、平太と新川のほうに歩いていった。
お務め向きではない頼み事だから、いつものように百文二百文の手間だけとはいくまい。酒肴でねぎらう心づもりである。
何度か入ったことのある居酒屋の暖簾をくぐった。そこそこに広い店だが、入れ込みの飯台は、もう客でいっぱいだった。
店の小女に、落ち着いて話せる所はないかと聞くと、愛想よくうなずいて奥へと案内した。三畳だけの小さな座敷だが、障子を閉めれば酔客の喧噪は
じゃまにならない。
作品名:桜咲くころ(上) 第45回オール讀物推理小説新人賞最終候補作 作家名:加藤竜士