桜咲くころ(上) 第45回オール讀物推理小説新人賞最終候補作
しばらくして注文の酒と肴が運ばれてきた。平飯台に、茄子の丸炊き、豆腐、きゅうりのぬか漬け、とろろのすり下ろしがつぎつぎと並ぶ。女が、
鰈の一夜干しはいま焼いておりますのでと言って出て行った。
「飲ってくれ」
勧めると、平太は小さく辞儀をして冷や酒の徳利をつまみ、文史郎に酌をして自分にも注いだ。それから、とろろの小鉢を取り、猪口に少し流し入れて
箸でかき混ぜる。
「芋酒か、この暑いさなかに風邪っ引きかい」
「いえ、近頃、こいつに凝っておりまして」言って、とろろ入りの酒を口に含んだ。
文史郎はそうせず、醤油をさして肴にする。
一口目が喉元を過ぎてゆくときの、鼻から抜けてゆく酒の香が清冽だった。ここ四日市町と、新川をはさんだ対岸の銀町には、蔵持の酒問屋が軒を
連ねる。この界隈で飲むと、どこでも酒が旨いのは、そのせいかもしれない。
「聞かせてくれ」
促すと、平太は猪口をもどし膝をそろえた。
「おぬいは、平井様の家を出てから、下谷池之端仲町の『うるし本舗』という店で女中をしていました」
「その店なら聞いたことがある。塗り物問屋だな」
「当時から、奥の女中を六人も使っていたという大店です。ところが、そこもまもなくやめてしまいました」
「なにか事情でも?」
平太が手で大きな腹をつくった。
「こうなっちまったもんで」
「赤子か」
「へい。働きはじめたときにはもう、腹の中にいたようで」
「子どもがいたのか……」驚きだった。「相手はだれだ」
「店をやめてすぐに所帯をもちましたから、亭主の子でしょう」
「亭主は?」
「大工の甚平という男です。これが、箸にも棒にもかからねえ野郎で」
「どういうことだ」
「大工とは名ばかりで、仕事はしねえ、朝から酒はくらう、酒癖は悪い、ねちねちからむ、女房を殴る蹴るだわで、ずいぶん苦労したようで」
「その野郎は今どうしている」
「所帯を持って半年もたたない年の瀬に、冷たくなって六間堀に浮かんでいました。甚平はその前の晩、飲み屋でしたたか酔って、客と喧嘩して
つまみ出されています。
そのままふらふら歩いていて、足でもすべらして落ちたんでしょう。ろくでなしらしい、ろくでもない終わり方です」
「そうか」
「おぬいが所帯を持ったのは、前にも後にもそれきりです」
「今その子どもは?」
「それが……、胡乱な話なんですが」
「どうしたい」
平太は、いっそう声を落とした。
「神隠しにあったと」
「神隠し? まさか」文史郎は思わず苦笑いになった。
「ちょいと外に出て戻ったら、いなくなっていたと。もっとも、お上には、人さらいだと届けたようですが」
「大店の娘ならともかく、貧乏長屋の赤ん坊を拐かす酔狂がいるか?」
「まったくで」
「赤ん坊はそれきりか?」
平太はうなずく。
「気になるのは、常日頃亭主の甚平がむごい扱いをしていたということで」
「どういうことだ」
「おなじ長屋にいた者の話では、夜泣きするたびに、黙らせろとか捨ててこいとかわめきちらす、蹴飛ばす、投げ飛ばす、挙げ句に水瓶につっこんで
殺そうとしたこともあったとか」
「甚平が赤ん坊を手にかけたか」
「考えられないことではありません」
「“神隠し”があったのは、いつのことだ」
「甚平が死ぬ半月ほど前のことです」
「おぬいが蛤町に家移りしてきたのは、それから間もなくということだな?」
「さようで」
「きな臭えな……」
文史郎が平井家にくる半年前、父嘉之助と三津の間には男子がいた。待ちに待った子である。それが、初誕生(生まれて一年目の誕生祝い)も迎えぬまま、
原因不明の病であっけなく逝ってしまった。与吉が言うには、そのときの三津の打ちひしがれようは、憐れで見ていられなかったという。母親とはそうした
ものなのだろう。おぬいが、子を殺されて亭主に殺意を抱いたとしても不思議ではない。
「おぬいが亭主を殺したか? 足下もおぼつかないほど泥酔していたなら、女でも堀に突き落とすくらいはできる」
そう言うと、実はあっしもそれを疑いましたと平太は首肯した。
平太の報告を聞いて一旦は納得したが、父の嘉之助が言いたかったのは、ちがうところにあったのかもしれないと思いはじめている。
つぎの日の朝、家で朝餉をとっていた。
開け放った戸口のむこうに桜の木が見え、青々と茂る葉が朝風にそよいでいる。それは、母の三津が、文史郎が平井家に入った日に植えさせたものである。
いつか三津が言ったものだ。
「この桜もおまえとともに育っていきます。これを見れば、自分の成長ぶりもわかります。おまえの守り神ですよ」
ひょろひょろと頼りなかった苗木も、今では太い幹をつくり、枝が板塀を越えて表にまで張り出し、季節のたびに花びらを散らして道を白く塗り染める。
桜の姿に重なって、あでやかな花筏の絵柄が思い浮かんだ。文史郎は面映ゆい気分におそわれる。着物を見て、「今年も、うちの桜は見事だった」などと
能のないことを言った自分が、気恥ずかしくなったのである。
疑念が湧いたのはそのときだった。
「毎年ご自宅の庭でお花見が楽しめるとは、贅沢なことでございますね」とおぬいは言った。
しかし、おぬいが平井家にいたとき、庭に桜の木はまだなかったのだ。それが、まるで見たような口ぶりにも聞こえるではないか。
そういえば、嘉之助との関係を疑った質問をしたら、おぬいは、亡くなったご新造にも無礼だと怒った。文史郎は、父が死んだとは言ったが、母が
亡くなったことは告げていない。そういえば、嘉之助が死んだと聞いたときも、さほど驚いたふうではなかった。実は今も平井家の内証に通じているのではないのか?
だが、どうして?
作品名:桜咲くころ(上) 第45回オール讀物推理小説新人賞最終候補作 作家名:加藤竜士