桜咲くころ(上) 第45回オール讀物推理小説新人賞最終候補作
「いいえ、そうではないので。飲み助で、酔いつぶれると頭に雷が落ちても目を覚ましやしません」
「しょうがねえなあ。番太郎は?」
「それが、木戸番も寝ておりまして」
木戸番の番人は、夜の警備に重きをおいているから、昼間は寝ていることも多い。
「番太郎の女房は?」
「不審な者は見ていないそうで」
たぶん、店先から駄菓子をかすめ取ろうとする悪童どもに気を取られでもしていたのだろう。木戸番屋では、内職に駄菓子や荒物、夏なら西瓜の
切り売り、冬なら焼き芋などを置いて売っている。
部屋を念入りに調べたが、犯人の手がかりになるものは見つからなかった。
「ま、盗人と鉢合わせしなかっただけでも運がよかったと思え」文史郎はまだ怯え顔のおぬいに言った。「せいぜい用心するんだな。おれも、
これからはまめに覗いてみることにしよう」
いい口実が見つかったと思った。これで、たびたび様子を見に来られる。
自身番であらためて聞き取りをすると、文史郎は与吉を伴ってお多福の源八の家に向かった。
佐賀町で小料理屋を営む源八は、深川一帯を縄張りにする岡っ引きである。「お多福」の通り名は、風貌から来ているのではなく、家業の屋号に
由来している。
お多福は、酒と季節の野菜の煮物や焼き魚などを出す小料理屋である。文史郎もそこの穴子汁が好きで、ときおり立ち寄る。店は女房のおちかが
切り盛りし、腕のいい料理人も置いているから、源八は心おきなくお務めに精が出せるというわけである。
源八は、文史郎のお抱えの岡っ引きではない。同心が町を見廻るとき、御用箱を持った物持ちと奉行所の中間一人、ほかに手先の岡っ引きなど
二、三人を従えるのがふつうだが、文史郎は与吉ひとりを御用箱も持たせず伴うだけである。
「大名行列じゃあるめえし、金魚のふんみたいにぞろぞろぶら下げて歩けるか。みっともねえ」というのが、言い分である。そうやってお上の威光を
かさに着、これみよがしに闊歩する姿を文史郎は嫌った。
岡っ引きには、犯罪者だった者も少なくない。捕まったり入牢中に他人の犯罪を密告などして、そのまま同心の手先になるのである。なかには、
十手にものいわせ、陰へ回って恐喝や強請まがいのことをする者もいるから、岡っ引きに対する町の者の感情は決して良いものではない。文史郎が岡っ引きを
伴わないのには、そういうことへの配慮もあった。
源八は、父の嘉之助が見込んで手札(鑑札)を与えた信のおける岡っ引きである。だから、必要なときは、文史郎も源八を頼みにした。
店の裏の茶の間で、源八は下っ引きの平太と話をしていた。
「おや、旦那、おひさしぶりで」
文史郎を見ると、お多福の源八は、お多福とは似ても似つかない下駄のような四角い顔をほころばせた。面構えはいかついが、人柄が大きく、自然と人が
集まってくるのか面倒見がいいのか、使っている下っ引きや手下は十人をくだらない。
「取り込み中かい?」
「いえね、他愛もねえ話をしていたので。江戸一番の大福餅はどこかと」
それを聞いて文史郎の目が輝く。文史郎も甘いものには目がない。大の男ふたりが、甘味談義に花を咲かせることもたびたびである。近頃の大福餅の人気は
すさまじく、これまでの小麦焼、今川焼、安倍川餅、柏餅など、影が薄くなってしまったほどである。
「一番はどこだ?」
文史郎の問いに、源八がきっぱりと言いきる。
「伊勢屋です」
「永代寺参道脇の?」
文史郎はまだそれを食べていない。
「あそこの大福は、餡がよろしい。いい小豆を使っているから、甘みも塩味も抑えめで、味に品がある。砂糖は和三盆しか使いません」
「そりゃ、ぜひとも食ってみねえといけねえな」
源八が急に思い出して言う。
「そういや旦那、弥三郎が八丈島からもどってきましたぜ」
「弥三郎が?」
やくざにもなれない半端者で、博奕場の使い走り、盗品売り、盗みとけちな罪を重ね、六年前、堅気者に怪我をさせて島送りになった男だ。もう五十半ばを
過ぎているはずである。
源八が言った。
「先だってのご法事のお赦しで出てきたらしくて、賭場で見かけた者がいるんで」
「帰って早々手慰みかい。いちどご挨拶しといたほうがいいな」
つまり、再犯しないようにそれとなく脅しをかけておこうというのである。
「承知いたしやした。居所を突き止めたら、すぐにお知らせしやす」
「頼んだ」
「ところで旦那、今日は……」
そうだった、親分に相談があるんだと文史郎は言った。ただしこれは、お役目から横道へそれた話だと断りを入れて切り出す。
「北森下町の寿助店を知ってるかい?」
「寿助店……。おめえ、知ってるか?」平太に訊き、顔をもどして言い添えた。「いえね、こいつが南六間堀町なもんで」
北森下町は、本所の北のほうの、五間堀川と六間堀川に囲まれたさほど広くない町人地で、南六間堀町はその隣である。
「承知しておりますが、なにか?」平太が訊く。
以前、文史郎は源八を介してこの下っ引きを何度か使ったことがある。齢は二十三、四だろうか。平太の掴んできた情報のおかげで、付け火の下手人を
挙げることができたし、牢破りの潜伏先を突き止め引っ捕らえたこともある。そのたびに、この男、若いのにやるもんだと感心したものである。
文史郎が訊く。
「そこの大家だった五十六は、まだ生きてるか」
平太は首をかしげ、記憶をたどる。
「……もうずいぶんと前に逝ったんじゃ……」
「やっぱりそうか……」
源八が訊く。
「旦那、なにをお調べで?」
「蛤町の大黒店のおぬいという女だ。そいつは、蛤町にくる前、寿助店で所帯を持っていた。大家が生きていたら、聞きたいと思ってな」
「いつごろのことです?」
「三十一年前だ」
「それはまたずいぶんと昔のお話で」
長兵衛から聞いたおぬいについての事柄や、空き巣に入られたことも伝えた。
源八はふっと顔を弛めて言った。
「それじゃあ旦那、盗みに入ったほうじゃなくて、入られたほうをお調べになるんで?」
「そういうことになるな」
「それはまたどういう……?」
「なんていうか、気まぐれみてえなもんだ」
源八の顔に、困惑の笑みが浮かぶ。
「そうだよなあ、これじゃ、頼まれたほうも困る」
だからといって、事情を明かすわけにはいかない。父の生前の秘密を暴く結果になっては困る。
そうなのだ、文史郎が心のどこかで恐れているのは、まさしくそのことだった。いたずらにほじくり返して、文史郎も知らぬ父の汚点を日のもとに
晒してしまうようなことだけはしたくなかった。
文史郎は言った。
「とにかく、北森下にいたころのおぬいと亭主の評判、暮らしぶり、なんでもいい、調べられるだけ調べてくれないか」
「承知いたしました」源八が平太を見て言った。「こいつにやらせましょう。平太なら、きっとお役に立つ話を仕入れてきますよ」
その日、夕餉の膳についても、まだおぬいのことが頭から離れなかった。
妻の七尾が、微笑を浮かべた顔で声をかけてくる。
「旦那さま、さっきから箸が止まっておりますよ。いかがなさいました?」
文史郎は力ない息を吐いた。
「実はな、親父殿が息を引き取るとき、妙なことを言った」
「妙なこと?」
作品名:桜咲くころ(上) 第45回オール讀物推理小説新人賞最終候補作 作家名:加藤竜士