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桜咲くころ(上) 第45回オール讀物推理小説新人賞最終候補作

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「後家だと言っていたが、こっちに来たときには、もう独り身だったのかい?」
「はい。亭主を亡くして間もないとか申しておりました」
「店子の評判は?」
「すこぶるよろしいですよ。口数は少ないが、柔らかな人柄で、だれからも好かれております」
「借金取りとか、怪しげなのが出入りするようなことは?」
「おぬいさんのところに? まさか」
「店賃が滞ったことは?」
「おぬいさんは腕のいい針妙です。近江屋さんに頭を下げられて、抱え針子になったくらいですよ」
 近江屋とは、日本橋呉服町にある呉服屋の大店である。
「針妙なのかい。女一人が食っていくには困らねえってえわけだ」
「そういうことでございます。床下に瓶を隠して小判を貯め込んでいるなどという、ふざけた噂をする者もおるくらいで」
「近江屋には通いで?」
「反物を預かって持ち帰り、うちで着物を仕立てて納めるんでございます」
「浮いた噂は?」
「まさか、旦那」長兵衛はふいと笑った。「あんなばあさんに手を出そうてえ物好きなんぞ、いやしませんよ」
「そうじゃなくてよ、来たときはまだ二十歳そこそこだったんだろう」
「たしかに、来たばかりのころは、長屋でもちょいと騒ぎになったくらいです。でも、惜しいかな、あの人には色気というものがない。もともと色恋に
疎いというか、不器用というか」
「大家に、そんなことまでわかるのかい」
「この齢まで何も聞かず何も見ずに生きてきたわけではございませんよ。それくらいのことはわかります。あの人は、井戸端で女房連中が品のない
色話をしていても、笑って聞いているだけで、話にまじわるようなことはありません。そういうお人です」
「文句のつけようのない店子ってえわけだ」
「さようで」
「ここに来るまえ、どこに住んでいた」
「さあ……、森下のほうではなかったでしょうか」
「なんていう長屋かわかるかい」
 記憶をたぐり寄せて宙をにらんでいた長兵衛は、少々お待ちをと言って奥へ引っ込み、しばらくして一枚の黄ばんだ書き付けを持って戻ってきた。
「ありましたよ、ありました。北森下町でした」
 店請証文だった。身元を保証する証文である。そこには、おぬいが北森下町寿助店の住人だったことが記されてある。請人は、五十六という大家である。
しかし、三十年もまえのものだ。大家ははたしていまも存命だろうか。
「ありがとうよ。助かった」立ち上がった。「おぬいのことでほかにもなにか思い出したことがあったら、教えてくれ。頼むぜ」
「平井様」庭を出て行こうとする文史郎を、大家が呼び止める。「どうしてあの人のことをお調べで?」
 長兵衛の、抑えこんでいた好奇心がついに顔を見せた。
「なあに、ちょいと人に頼まれてな」
「どのような?」
「おれが聞きに来たことは、他言無用に頼むぜ。とくに、おぬいには」
「……かしこまりました」
 答えをはぐらかされ、恨みがましい目で見送る長兵衛に、文史郎は無言で背を向けた。

 つぎの日、町廻りに出て永代橋を渡っているとき、文史郎はふいと思い立って訊いた。
「与吉、おめえ、うちに来て何年になる」
「四十年と少しになります」
「親父殿には何年ついてた」
「二十九年です」
 答えがよどみなく返ってくる。重ねた歳月を指折り数えることも、記憶の糸をたぐることもない。嘉之助の死によって、ともにしてきた時の積み重ねを
振り返る回数が増えたのかもしれない。
「そうか、それだけ長い間いたなら、知らねえことはねえな」
「……何でございましょう」
「以前うちにおぬいという女中がいたのを覚えているか」
「……たしか、三年ほどしかいなかったのでは」
「そうらしいな。どんな女だった」
「さあ、そう申されましても……ただのお女中で。働き者だったというくらいしか」
「出ていったのは、なにかわけがあったのかい?」
「さあ、よく存じませんが……」
「その女が、蛤町の大黒店にきたのは、平井の家を出て一年過ぎたころだ。そのときにはもう後家で、お針子で暮らしを立てていたそうだ。平井の家で
おぬいに仕立物を頼んだことはあったか」
「さあ、どうでしょう……。御祖父の代から、着物は日本橋の美濃屋と決まっておりましたし、普段のものは、先代のご新造がご自分で縫って……
そういえば、ご新造がその女中に裁縫を教えておられましたね。針妙になったのも、そのおかげではないでしょうか」
「親父殿がおぬいの家を訪ねたことは?」
「大黒店をですか? ございませんが」
「二人はとくべつ親しかったか」
「……どういうことでしょう?」
 文史郎は、しばし言いよどんだ。
「親父殿は、そとに女がいたか」
「なにをおっしゃいますか。大旦那様にかぎってそのようなことは」
「与吉、隠すな。おれにはなんでも正直に話せ」
「ほんとうに、そういうことはありませんでした。大旦那様のお人柄は文史郎様もご存じでしょう。生真面目で、女を囲うなど……」
「そうか……」
「旦那、おぬいという人が何か……」
「いいんだ、全部忘れてくれ」
 やはりそうかと文史郎は思う。父は、よそに女をつくるような男ではなかった。
 相川町と富吉町の自身番をのぞき一ノ鳥居を抜けたころには、日は頭の上のほうに居場所を変えていて、容赦なく照りつけた。顔にあてる扇の風も
生ぬるい。
 蛤町の自身番のまえに来て「番」と声をかけると、いつも返ってくる「ははー」という声のかわりに、大家の長兵衛があわただしく出て来た。
「旦那、たいへんです」
 その後ろからおずおずと出てきた女を見て、文史郎は内心あわてた。おぬいだった。
「どうしたい?」
「泥棒が入ったんです」
「なんだって?」
「おぬいさんが仕立物を届けに行って帰ってきたら、部屋が荒らされていたんですよ」長兵衛は思い出したように付け加える。「そうでした、こちらが
そのおぬいさんです」
 おぬいがこっくりと会釈する。
「ばあさん、大丈夫かい?」
 いきなりばあさん呼ばわりされ、おぬいは戸惑ったように「はい」と小さくうなずいた。
 長兵衛に案内させておぬいの家に向かう。
 四畳半に台所がついただけの小さな部屋は、足の踏み場もないほど荒らされていた。畳と床板の一部がはがされ、下の土まで掘り返されている。
竈や水瓶の中まで物色したらしく、灰や水も飛び散っている。
「盗まれた物は?」
「いいえ、何も」おぬいが言う。「ごらんのとおり、金目の物などありませんから」
「商い物の着物は?」
「ちょうど届けたところでしたので」
「やられたのは、この家だけかい?」
「さようです」長兵衛が背後から顔を寄せてきて声をひそめた。「旦那、あれですよ。例の噂を真に受けた大馬鹿野郎の仕業ですよ」
「床下に小判を貯め込んでるっていう、あれかい?」
「そうに違いありません」
「ばあさん、小判の詰まった瓶は無事だったかい」
 文史郎の軽口に、おぬいは困ったような笑みを浮かべて首を振った。
「真っ昼間から、豪胆なことしやがる」文史郎は部屋を見回してつぶやき、長兵衛に訊ねる。「物音を聞いた者は? ここまで派手にやったんだ。
誰か気づいただろう」
「こっちは明店で、こっちは日傭の銀三ですが、寝ていて気づかなかったと」
「患いか?」