桜咲くころ(上) 第45回オール讀物推理小説新人賞最終候補作
身寄りのない女の一人暮らしだから案じてやれという意味か? そうだとすれば、父の遺言とはいえ、承服できかねる。なぜゆえおれが案じてやらねば
ならぬのだ。
文史郎が定町廻りのお役目を拝して十四年になる。だから市中のことは熟知している。おぬいの住む大黒店は深川蛤町にある裏店で、大家の長兵衛とは
自身番で顔を合わせるし、よく知っている。
いつか長兵衛が、おぬいについて訊いてきたことがある。自分の店子が平井家で女中をしていたことを耳にはさんで話の端にのせたらしいのだが、
文史郎は知らなかったし、興味も引かれなかった。
親父のやつ、あのばばあに惚れていたのか?
一瞬疑ったが、すぐにその疑念は捨てた。死んだ父は五十九で、おぬいは五十そこそこである。まさか色恋ではあるまい。
若いときからの腐れ縁ということも考えられるが、父の性格からいって、使用人に手をつけるなどありえなかった。なにより、嘉之助にはそのとき、
三津という妻がいたのだ。
通夜の夜、七尾が嘉之助の枕元で、「まるでお義母さまの後を追うように……」と声を詰まらせると、伯母の光代が、
「そこまで三津様を慕っておられたのですねえ」
としみじみ言った。
「そうだったのですか?」文史郎は驚いて伯母を見た。
「父が優しい言葉をかけるのを一度たりと見たことがありません。まことに母を思っていたのでしょうか」
「嘉之助様は、心をおもてに出すのを潔しとしないお方でしたからね」
六十を過ぎていまだかくしゃくとした光代が、しっかりした口調で続ける。
「いつかわたくし、嘉之助様は三津様がいなければ、生きて行けないでしょうとからかったら、キッとにらみつけられてしまいました。
でもそのあと、こっくりとうなずいたのですよ」
自分の見たことのなかった裏側を突きつけられ、文史郎は当惑する。母と心が通い合っていたとは、すくなくとも父が母を愛しんでいたとは
信じられない思いだった。
しかし、ふさぎこみ、急に老け込んだ父に合点がいったのも事実だった。
やはりあれは純粋に悲しみの涙だったのか、と母の枕元で涙を流している姿を思い返す。そのときはじめて、父は母に死なれて生きる力を
失ったのだと思い至ったのだった。
父が生涯愛したのは母ひとりだった。おぬいと色恋のしがらみがあったわけではない。ならばなぜ、気にかけろなどと言ったのか。
鬱蒼と繁る庭の桜の濃い緑が、夏の陽射しを浴びてさらさらと揺れている。
その向こうに広がる雲ひとつない空を見あげて、文史郎は肚を決めた。
町廻り同心だから、探索はお手の物だ。じっくり腰をすえて親父の遺言の真意を探ってやるか。
文史郎は、半刻前から奥の間にこもったきりである。父が寝起きしていた部屋をくまなく調べたが、期待した日記のようなものは出てこなかった。
つぎは隣の小部屋だ。障子を開けると、かびくさい紙の匂いが鼻腔をついた。三畳の小部屋は、うずたかく積まれた書物で埋め尽くされている。
それを見て思わず苦笑いし、ふっと鼻を鳴らした。文史郎には頭の痛くなるような本ばかりである。父親のまじめで勉強家だった人柄があらためて
思い起こされた。
手近なところから手に取り、父の遺した書き付けかなにかないか、調べはじめる。おぬいと嘉之助を結びつける手がかりを探している。
廊下を通りかかった七尾が気づき、入ってきて、悲しげな目を向けた。
「旦那様、なにも、そのように急がずとも……初七日もまだ終わっていないのですよ」
「遺品の整理じゃねえよ。ちょいとした捜し物だ」
「そうでしたか。お義父さまも……」
七尾は言いかけて、そのあとの言葉を探すように部屋を見回した。義父が生きていたことの確かな証しを探しているようでもあった。この一年、
いちばん長くいっしょにいたのも、甲斐甲斐しく介護したのも七尾だった。
「そういえば、忘れていた。親父がおめえによろしくとよ」
「……なんのお話です?」
「息を引き取るきわに言ったんだ。七尾にはほんとうによくしてもらった。くれぐれも礼を言っておいてくれと」
「お義父様が……?」
「七尾はいい嫁だ。大切にしろとも」
立ちつくし文史郎を見上げる目に、見る見る涙の玉がふくらんだ。そして、ぶつけるように顔を押しつけてきた。
その小さな背中に手を回す。
「おれからも礼を言うぜ。親父に礼を言われて涙を流すおまえは、いい女だ」
妻の嗚咽と肩の震えは、いつまでも止まらない。
非番の日、文史郎は六ツ半(午前七時)過ぎに家を出た。今日は役向きではないから、上布の着流しで、腰に大小はたばさんでいるが十手は
持っていない。
日が高くならないうちにと思ったのだが、すでに陽射しは盛夏の刺すような暑気を含んでいた。
大家の長兵衛の住まいは、大黒店の木戸脇のこぢんまりした一軒家である。路地から裏に回ると、縁側に金魚鉢を出して餌をやっていた。
「よう、じいさん」文史郎は声をかけた。
「おや、平井の旦那、どちらへ?」
「今日はおまえさんのところに来たんだ」
「おや、そうでしたか」
「いいかい?」
「どうぞどうぞ」と言って、長兵衛は奥に声をかけた。「ばあさん、八丁堀の旦那にお茶だ」
長兵衛とは、自身番ではしょっちゅう顔を合わせるが、住まいを訪ねるのははじめてである。
狭い庭だが、なでしこの花の小さな白が、緑のなかに筆で雫を散らしたように点々と散っている。縁側に置かれた鉢の行灯造りの竹の柱には、
朝顔が大輪の花をつけていた。
女房らしい人の好さそうな老女が麦湯を運んできて、笑みで会釈し、立ち去った。
文史郎は縁側に腰を下ろし、一気に飲み干す。火照った身体に冷たい麦湯は旨かった。
「住みやすそうな家じゃねえか」
「ここもぼろになっちまって、費えがかかってかないません」長兵衛がぼやく。
長兵衛は長屋の大家である。齢は七十ちかいはずだが、話し方も身の動きもまだまだしっかりしている。昔は古手屋もやっていたが、今はそっちのほうは
たたんで、家主業に専念している。
長屋の経営も楽ではないらしく、年中愚痴をこぼす。また明店が増えてしまった。店子の誰それは、家賃の払いが半年も滞っている。建物のあちこちに
ガタがきて、修繕普請のかかりが多くて、たまったものではない。下肥を汲みに来る行徳の宇助は、肥代をけちって野菜ばかり押しつけようとする……。
町役人としてもよく働き、人柄も好いが、この愚痴さえなければなあと文史郎はいつも思うのだった。
長兵衛が聞く。
「わざわざこちらにお越しとは、どのような風の吹き回しで」
「ちょいと尋ねたいことがあってな。断っておくが、これはお役目とは関わりねえ。ただの世間話だ」
わけありと見たのだろう、家主の白い眉の下の目がきらっと光った。
「かしこまりました」
「店子のおぬいというばあさんのことだ」
「おぬいさんでございますか。はいはい、昔旦那のお屋敷のお女中だったことがある」
「だから、おれは覚えてねえんだよ」
「そうでしたな」
「おぬいが大黒店に来て何年になる?」
「長屋ができてすぐでしたから、三十年ですな。うちでいちばんの古顔でございますよ」
作品名:桜咲くころ(上) 第45回オール讀物推理小説新人賞最終候補作 作家名:加藤竜士