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都合のいい記憶

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「深層心理を抉るような、知的な作品」
 を目指している。
 だからと言って、すべてが彼のオリジナルで、決してドキュメントのようなノンフィクションではない。それは彼自身が自分を許せないという思いに至らしめるものであり、彼が小説家になりたいち思ったゆえんでもあるだろう。
 そんなことを考えているうちに、送迎バスは森に差し掛かっていた。時間としては夕方近くになっていて、西日が眩しかったので、法学としては西を向いている方向に座っていたのだろう。木々をよく見ると風に靡いている感じがしない。夕方近くであることから、無意識に彼は夕凪を感じたのかも知れない。
 彼にはそんな繊細なところがあった。無意識に自然というものを身体が感じるというべきだろうか。そこが彼にとっての感性であり、小説家を目指したことを間違っていないと思わせる証にもなっていた。
「駅からどれくらいの時間が掛かったのだろう?」
 と思い時計を見ると、電車の到着時間から似十分ほどであった。
 駅を降りてバスに乗り込み発射するまでの時間を考えると、走行時間とすれば十五分も経っていないことになる。その間にいろいろ考えを巡らし、目の前の風景はまったく変わってしまったことを思えば、十五分というのは、想像以上に短いものであった。
 気が付けば目の前を走行していたバスはいなくなっていて、考え事をしている間に、目の前には見えていたにも関わらず、意識の外に置いたことで、温泉宿の方に曲がっていったということを失念していたのだろう。
 今までにも何度もあったことだけに、それほど気にはならなかったが、目の前で繰り広げたことをまったく失念していたという事実をいつになく感嘆として考える自分が不思議な感じがした。
 だが、実際には先にわき道に入り込むのはこのバスのはずなので、バスがいないということはそれだけ引き離されたということであり、途中の信号にでも引っかかったタイミングでも悪かったのだろうが、まったくそのことをその時に意識しなかった自分を後で考えると変な気分にさせた。
 バスは標識を曲がり、道なき道を入り込んだが、すぐにアスファルトのある道に差し掛かり、少しカーブしたかと思うと、一気に開けた湖畔に出たのだった。
「あれ?」
 鎌倉は標識から曲がって湖畔に辿り着くまでの短い間、違和感に襲われていることに気が付いた。
 その違和感というのは、
「初めてきたはずなのに」
 というものであった。
 初めてきたはずのこの場所で、今通ってきた道が自分の記憶の中に残っているのを感じた。まだ封印されているわけではないので、かなり浅いところにあった。つまりは、ごく最近に意識したことだということを示していたのだ。
 鎌倉は、ここにやってきたのは、新たな作品を考えようと思い、気分転換を兼ねてのことだった。彼は作品を完成させると、次作に取り掛かるまでに結構時間のかかる方だと思っていた。他の作家をよく知らないというのもあったが、作家によっては、一つを発表しても間髪入れずにまた別で連載したり、同時に複数の連載を抱えていたりする人もいるようだが、
「俺には決してマネのできることではない」
 と思っていた。
 一つのことに集中すると、他が見えなくなるというのもあるが、そもそも小説を書くということは、自分の想像力や妄想に対しての挑戦だと思っている。書いている間は完全に自分だけの時間で、妄想はとどまるところを知らない。つまりは、小説を書くということは、いかに妄想の中に自分を置くことができるかということに掛かっている。それがなければ自分が架空の話を書くことなどできるはずがないと思っている。この発想はきっと俳優などにも言えるのではないか。まったく自分と違った人になりきるのだから、妄想の中に身を置かなければできないことで、それに一番必要なものは、集中力だということではないかと思っている。
 だから、鎌倉は意識というものと記憶というものを別の観点から考えている。意識があって記憶に封印されるのである。記憶と意識、同じ時に考えることのできないものだという発想である。
 過去の記憶を思い出して、小説のネタにするには、記憶から一度意識という箱に移してから集中力を最高に高めて、意識するというプロセスが必要である。
 ここで意識という言葉が二つ出てきたが、この二つの意識は決して同じものではない。
「意識の中で意識する」
 というまるで禅問答のような言い方になってしまうが、それは意識に集中するという集中力を持った時に、おのずと分かってくることではないかと思う。口で言い表すことは難しいが、どうすればその感覚になれるかということくらいは、口で説明することもできるだろう。
「少し、バスを止めてくれませんか?」
 と運転手に言うと、
「どうしたんですか?」
「少しだけこの場所で降りてみたいんですが」
「ええ、構いませんよ」
 と、普段からこういう客もいるのか、それとも別に意識がないのか、彼は表情一つ変えずに湖畔にバスを止めて、鎌倉のいうとおりにした。
 鎌倉はその場でバスを降り、表に出た。少し歩いて湖畔から全体を見渡す。目の前には遠くにホテルが見えた。そのまわりを小高い山が連山となって、湖を取り囲んでいるように見える。その山肌はほとんど標高が変わらず、ほぼ水平線に平行に流れているように見えた。若干のでこぼこはあるが、そこに違和感は一切なかった。日が差しているにも関わらず緑が深く感じられ、空の色と湖の色が青であるにも関わらず、さらに深さを感じさせたことに矛盾を感じた。
 水平線はやはり風を感じさせるものはなく、それを見ていると、
「やはり、以前にもこの光景を見た気がする」
 と、自分の気のせいでないことを再度感じていた。
 ただ、一つ気になるのは、その時自分が一人ではなかったような気がして仕方のないことだった。
「誰か同行者があったのだろうか?」
 という思いだったが、一緒にいた人は、自分の右側にその気配を感じる。
 そう思うと、鎌倉は初めて違和感を抱いた。それは自分の性格上の矛盾というべきなのだろうが、よくその場面でその矛盾に気が付いたものだと感じたのもどこか変な気がしていた。
 というのも、鎌倉は昔から誰かと二人きりになる時というのは、まず右側にその人を伴わせるということはしない。性格的というか、性質的と言ってもいいだろう。無性に嫌なことは性格的に拒否するというより性質的に拒否をする。まるで本能に誘われたという感覚である。
 相手が女性であればなおさらのこと、いくら相手が自分の右に回ろうとしても、必死でそれを避けようとする。
「もし、相手がそれを嫌だと言えば?」
 と聞かれると、
「その人を避けるまでだ」
 と答えるだろう。
「どんなに好きな人でも?」
「この気持ちに変わりはない」
 それほど、本能からの行動は自分に正直である証拠であり、抗うことのできないものなのだろう。
作品名:都合のいい記憶 作家名:森本晃次