都合のいい記憶
それも無理のないことで、いつも表情を変えることがなく、一人でいることが多かったからだ。
授業を受けていても、窓の外ばかり見ていた、天気がいい日でも雨の日でも、いつも空を見ている。彼と話をしたことがないという人がほとんどだっただろう。小学生時代に仲の良かった自分にさえ、余計なことは一切言わず、必要最小限の会話しかしたことがなかったくらいだ。
――中学三年間に一体彼に何があったんだ――
と思わせた。
中学時代というと、普通であれば思春期であり、小学生を知っていて、高校生になって再会したのであれば、子供からいきなり大人になった相手と再会した気分になることであろう。それは成長過程を知らないということであり、三年という期間ではあるが、もっと長い間知らなかったと思えるかも知れない。
そういう意味では、彼もその友達から見れば、急に大人になったという印象を与えていることだろう。
その時彼は思った。
――本人は自分が成長したと思っていないので、それを隠すために、人に自分を悟られまいとして、さらに必要以上に自分を意識させまいとする気持ちが強く働いて、無表情になったり、敢えて、隅の方にいようという無意識なのか、そんな気持ちが働いているのでhないだろうか――
という思いである。
そう思うと一応の納得が行く。青春時代には、そんな感覚を持つこともあるだろう。特に彼は自分のことを小学生の頃からよく把握しているように見えたからだ。そうでもなければ子供世界と言えども、グループの中心は張れないだろう。
いや、子供時代だからこそなおさらではないか。これから成長するであろう人もいれば、もう大人になりかかったいる人もいるという雑多な人間関係の中でのことなのだから、それを束ねるというのは結構難しいものではないだろうか。
いつの間にか、彼は頭の中が高校時代に戻った気がした。高校時代に戻って、そこから小学生の頃の子供を想像している。何と不可思議な感覚であろうか。これがどういう感覚なのか。
そもそも、過去のことをよく思い出したり、過去に戻りたいという意識があったのかどうか疑問な感じがするが、もし、戻りたいという感覚がどういうものなのか、小説を書く上で前に調べたことがあった。
そこには五つほど理由が管変えられると言われていたような気がする。まず一つは、
「辛い現実を受け入れられない」
というものだ。
これは、当てはまらない。もし辛い現実があるとすれば、締め切りに追われるというくらいであろうか。しかしそれも、達成した時の喜びがひとしおなので、そこまで逃避するほどのことではないと思えた。第二の、
「現代に対して不満を持っている」
というのも違っている。第一の原因との違いは。この現代というのが、自分だけではなく、社会一般をさしているということである。第三には、
「うまく行った過去の自分を羨ましく思う」
これも違う。
彼は、自分の過去から成長を普通に右肩上がりの時系列で考えていた。そこに違和感がないことを思うと、自分で納得しているということだ。つまりは、過去よりも今の方がよくなっているということに疑問を感じていないのだ。だから、過去を羨ましく思ったり、子供の頃に戻りたいなどという意識は持ったこともなかった。そういう意味で、第四の、
「過去を後悔しており、やり直したいと思っている」
というのも、本末転倒な発想だった。第五は、
「劇な身体の尊さに気付いた」
というものだが、まだそこまで老化など感じたこともないので、これも違う気がした。
では、理由はないように思える。それなのに、小説の構想を練る時は、なぜか子供の頃であったり、高校、大学時代の発想が大きく頭をもたげるのだ。
今から思えば、高校生になった頃の意識に戻って、さらにその意識が小学生という子供時代を見ているというおかしな感覚になっていたことが何か原因の一角を示しているような気がして仕方がない。
だが、今回そのことを思い出したのには何か意味があるような気がして仕方がなかった。作家として、普段からネタ帳なるものをいつもカバンにしたためている鎌倉だったが、この時の印象をネタ帳にしたためた。特に、自分が過去に戻った感覚の中で、さらに過去を思っている自分という発想のことである。
「これは、今後の執筆に何か使えそうだ」
と考えたのだ。
鎌倉光明という小説家は、それほど有名な作家ではない。元々は雑誌社の文化部で記事を書いていたが、元々小説家志望だったこともあって、心機一転会社を辞めて執筆を始めることにした。
編集長が、自分の記事を褒めてくれて、
「お前文才があるじゃないか」
という一言から、次第に自分の中でその言葉が現実味を帯びてきて、気が付けばいても経ってもいられなくなっていたということである。
完全に視界が狭くなって、小説家になっている自分しか将来が見えなくなったことが原因であるが、今から思えば、
「早まった」
と思わなかったと言えばウソになるだろう。
だが、思い立って行動を起こした時、衝動に任せた方が結果がよかったというのが、彼の今までの人生で多かった気がする。
「考えたって一緒だ」
という思いが常に彼の頭の中にはあった。
何かを考えても、真剣に考えれば考えるほど、結局また同じところに戻ってくる。その考えには分岐点がなぜかない。何かに悩む場合、必ずいくつかの選択肢があり、選択するための分岐点があるはずなのに、
「選択しないといけない」
と思えば思うほど、選択肢が見つからず、また同じところに戻ってきているのだ。
そのうちに余計なことを考えないようになり、それが結論を導いてくれる。
その時に感じるのが、
「俺は、真剣に考えることができない人間なのかも知れない」
ということだった。
親権に考えることができないという思いが嵩じて、
「真剣に考えてはいけない」
という思いに至るという発想に至るのだった。
実際に選択肢を探す考えが頭にある時、自分が真剣に考えているのか疑問に思うからだった。
「真剣に考えたって、しょせんまた同じところに戻ってくるんだから、考えるだけ無駄なことだ」
と訴えている自分もいるが、だが、
「考えないと、後で後悔することになる」
と訴える自分もいるのも事実で、そんな二人の間に入ってジレンマに陥ってる自分が何者なのかと考えてしまうこともあった。
ただ、これも小説の発想としては使えるもので、この時に感じた「後悔」というものが、実は小説のネタをみすみす逃すことになるのを防ぐという意味での後悔ではないかと思うようになった。
つまり真剣に考えているのは考えているが、その目的が違っていることで、考えの基本が違っていても、違っていないと思い込まないといけないという自分の中の錯誤がジレンマとして意識の中に残っているから、まるで真剣に考えていないように思えるのかも知れない。
そのあたりが自分の考えを袋小路に追いこみ、堂々抉りを繰り返させる原因になっているのだろう。
堂々巡りという考えはいつも頭の中にある。
彼の小説は、普通のジャンルと違って、一つの枠に当て嵌められないところがあった。彼とすれば、