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都合のいい記憶

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 捜査は小説家のネタ帳などと同じで、聞いてきたことを小さなポケットサイズの手帳か何かにメモっておいて、後で清書するものである。したがって、自分の書いたメモなので、自分だけが読めればいいという程度にしか書いていない。だから、後で読んだ時、自分でさえ、何と書いたのか分からないということも往々にしてあったりする。それを清書しながら、調査順に綺麗にまとめるのも一苦労である。
 それなのに、さらにそこから、実際に時系列に並び変えるのである。一度清書したものを再度清書するというのだから、当然抜けてくるところもあるかも知れない。
 しかも前述の三パターンの中の、最初は調査順で書いたものをクレームという指摘を受けて書き直したのであれば、この懸念は大きくなる。なぜならやり直しというのは、依頼を受けたものにとっての最大の屈辱に違いないからだ。
 自分のせっかくの苦心も認められていないようで、思わず腐ってしまう気持ちになるかも知れない。
 そんな状態なので、屈辱感の中で相手に言われるままやり直すというのは、きっと指先がワナワナと震え、唇もカサカサに乾き、目は血走った状態で書き直していただろう。
 しっかり考えることのできる頭で書き直さなければいけないのに、気持ちの中で屈辱感だけが残ってしまっては、もれなく書き切ることなどできるであろうか?
 鎌倉も小説家の端くれなので分かるつもりだ。
 執筆依頼を受けて作品が完成するまでには、幾度も編集担当者と打ち合わせを行う必要がある。
 構想を練るところから、プロットの作成。ここまでは編集担当と二人三脚のところもあるが、それが編集会議に掛けられ、何とかゴーサインが出たとしても、まずそのまま通過ということはありえない。編集長からのダメ出しが一つや二つあっても不思議のないことだった。
 その時点で屈辱を感じる。やり直しや改修というものがどれほどの屈辱感に値するか、作家であれば、たぶん誰にでも分かっていることだろう。
 プロットが認められても、作家は自由ではない。編集部の方から課題のようなものを与えられ、それに沿った作品を書くことになる。ここから先は担当の人との二人三脚というわけにはいかないが、その分決して自由になるわけではなく、しがらみの中で作品完成まで缶詰めにされてしまうわけだ。
 売れっ子作家でっても、いや売れっ子作家であるほど、この状態に極度のプレッシャーを感じる。そして感じる必要もない屈辱感が生まれ、自由にならない自分のその時の立場を責め続けるのではないだろうか。
 ボクシングの選手が、試合前になると、体重調整のために、減量に入る。その時、体重が増えすぎてしまった選手には地獄のような毎日であろう。食べ物もまともに食べることもできず、水分さえ調整しなければいけない。(ただ、今は脱水症状にならないように水分補給はスポーツ飲料などで賄っているかも知れないが)
 そんな状態でも練習をしなければいけない。まるで拷問のようなものだ。しっかりとカロリーを摂ることもできずに特訓に励む。それはまるで自分を追い込むことで、精神の弱い人は、その状態に屈辱感を抱くのではないだろうか。
 そう思うと、屈辱感というのは想像を絶するものがあるに違いない。鎌倉自身は売れない小説家なので、そこまでの屈辱感はないが、
――そんな屈辱感を味わらないといけないのであれば、小説家などやっていられるものか――
 と考えるかも知れない。
 探偵が調査した内容が時系列になっているので、読む人には分かりやすいかも知れないが、どこかに何か違和感を持つ人もいるのではないだろうか。もっとも、時系列で書かれていること自体が違和感であるということに気付かなければ、この疑念は湧いてこないかも知れない。
 鎌倉は自分でも小説を書くので、どこかに不思議な感覚があった。読んでいて、
「何が大切で何がそれほどでもないのか、状況に抑揚がないのだ」
 という思いがしてきた。
 そのためなのか、
「読んでいて、何か堂々巡りを繰り返している気がするのだが、気のせいだろうか」
 という感覚があった。
 堂々巡りを繰り返すと進んでいるのか戻っているのか分からなくなる。そういえば昔の演歌の歌詞に、
「三歩進んで二歩下がる」
 というのがあったではないか。
 また追う一つ感じた思いは、小学生の頃、体育の授業で水泳があったが、必死になって掌で水を漕いで平泳ぎをしようとするのだが、思ったよりも進んでいない。それを思い出していた。
 何とも訝しいではないか。
 水泳の平泳ぎで思い出したのだが、夢というのは潜在意識が見せるものだと言われているが、その証拠だと感じたのが、夢を見ているという意識の中で、
「夢だったら何だってできるはずなんだ。何といっても夢なんだから」
 というへんてこな理屈を思い浮かべて、空を飛んでみることにした。
 さすがに高いところから飛び降りるというのは、いくら夢だと思っていても恐ろしいので、鎌倉はその時、自分で宙に浮いてみようと思った。
 実際にやってみると、宙に浮くことはできるのだが、あくまでも人の腰の高さくらいのところにプカプカ浮いているだけだった。そして、勢いよく漕いでみるのだが、空気に激しい抵抗を感じて前には進む。しかし、その抵抗はまるで水中であるかのごとく感じると、まるで体育の授業での水泳の時のように、ほとんど前に進んでいない。
 いくら夢であっても、自分の意識が、
「人間は空は飛べない」
 という常識として認識している。
 そういう意味で夢というのもなんとも訝しく、もどかしいものではないか。
 そんなイメージをその調査報告書には感じた。
――本当にこの調査報告書には、何も形式的な調査報告以外は入っていないのだろうか――
 と、感じた。
 この訝しさともどかしさは、
――そうではないのではないか――
 と、鎌倉に教えているような気がするのだ。
 何かの忖度が働いているという意識が鎌倉の中にあり、それが誰の誰に対しての忖度なのかまでは分からない。そして誰というのが何かの組織なのかも知れないような気もしている。
 鎌倉はそんなことを感じ、実際に報告書の中での違和感がどこから来るのかを考えた。まず最初にやるべきことは、その報告書に書かれていることで、自分がよく理解できないところを吟味することだった。
 それにより一つの考えが浮かんだ。それは書かれている内容に矛盾があったり、足りない部分があるので、そこを埋めることだった。
 つまりジグソーパズルのピースが一枚、あるいは数枚足りないことでの矛盾を埋めるということである。
 やはりどうしても気になるのは、最後の、
「ちなみに」
 の部分である。
 本当に、ちなみにという程度でしか書いていないのであれば、別に報告書にして残す必要はない。自分で整理して時系列に並べたにしても、言われて並べ替えたにしても、必ず複数の清書が必要だったはず。だから本当は最初の順番で清書した資料にだけ残しておけばいいものを、なぜわざわざ中途半端な内容のまま、残してしまっているのかということである。
作品名:都合のいい記憶 作家名:森本晃次