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都合のいい記憶

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 あくまでもイメージとして頭に残っている人、そして瞼の裏に焼き付いてしまっている人、そして、実際に住んでいた人、それぞれを分けるとその比率には結構なばらつきがあるような気がする。
 田舎と言っても、山間部と海岸線ではまったく違っているだろう。農業などで生計を立てている村、漁業で生計を立てている村、それぞれが存在する。しかも村というと閉鎖的であり、隣の村でもよそ者扱いされたりするくらいだ。
「まるで警察の管轄に対しての、縄張り争いのようだ」
 と言っていた人がいたが、まさにその通りなのかも知れない。
 田舎に対してのイメージを、
「のどかな」
 という言葉だけで表現するのは危険な気がする。
 なぜなら、田舎に住んでいる人は都会の人間を毛嫌いしているくせに、その表情は穏やかなものだからである。
 都会に住んでいて田舎に行くのと、田舎に住んでいる人が都会に出るのとではどれほどのリスクがあるというのだろう。そのどちらも比較にならないほどのリスクを伴うだろうが、それはやはりそこに住んでいる人の偏見であったり、人数による多数派というものではないだろうか。
 昔であれば、通信環境やマスメディアなど、都会と田舎では雲泥の差だったこともあり、お互いに知らぬことが多い中での偏見などは往々にしてあったことだろう。
 ただ、大人数による多数派意識は田舎の方が大きかったと推測される。特に村八分などという言葉が示す通り、田舎の集落の中だけで法律のようなものが存在し、それを犯したものには大きな罰が与えられ、下手をすれば、次世代にまで影響しかねないこともあったりする。
 そんな閉鎖的な田舎というのは、都会から見ると実に滑稽に見えたりするだろう。
「田舎臭い」
 などという表現は、都会から見た雁字搦めで、閉鎖的な環境に対しての偏見であったのではないかと思える。
 確かに都会には狭い範囲でたくさんの人が密集していて、人口密度からすればまったく違うのだろうが、都会に比べて田舎という土地の広さを考えれば、段違いである。全体の人口から、田舎と言われるところの人口がどれくらいで、都会と呼ばれるところがどれくらいなのか、分からない。統計としてはあるのかも知れないが、そもそもどこからを都会と呼び、どこからが田舎というものなのかの線引きも難しい。きっと、
「都会、あるいは田舎という目線の違いからそれぞれを区分けするとすれば、まったく違った絵が出来上がるのではないか」
 と思えるのだった。
 田舎から見れば、相当な範囲を田舎だと感じるだろうし、都会の人が見れば、少々でも都会と見るかも知れない。だがそれぞれ毛嫌いしているという観点から、都会から見た時の田舎というのは、果てしなく広いというような錯覚を抱いているような気がしている。そうなると、都会の方は、面積的にも人口的にも、不利に思えてくるに違いない。田舎が有利だと思うのは、これも田舎に対しての偏見であろうか。
 ただ、時代はどんどん進んでくる。戦後間もない頃までは田舎が幅を利かせる時代もあっただろうが、高度成長時代になれば、田舎にたくさんの工場や住宅が作られるようになり、どの田舎を手中に収めるかというのが、都会での競争の肝になっていたりする。まるで、現代風
「国盗り物語」
 と言ってもいいのではないかと思えてきた。
 そのおかげで、都会の文化が田舎にも入ってくることになるのだろうが、都会の利権がまともに田舎の人間の気持ちを左右することになる。田舎を開拓しようと考える開拓派と、田舎を守ろうとする保守派がまともにぶつかって、まるで幕末の、開国派と攘夷派を地で行っているようなものではないだろうか。
 都会にすっかりかぶれてしまう田舎もあれば、田舎のままどこともかかわることもなく田舎として残るところも、まだその頃にはあったかも知れないが、自裁が進むと、市町村合併などというものが、村を襲ってくる。
 都会ではそれまで、好景気、不景気が交互にやってきて、そんな中で日本はいろいろな策を弄することで立ち直ってきた。
 だが、その立ち直りの中には多少なりとも何かを犠牲にしての復活であったということは間違いない。
 この当時の市町村合併という時代も、その流れに押されてのことだった。
 それぞれの市町村でいろいろな思惑があり、合併する側、合併される側とそれぞれの利益が交差して、どんどんこの国から町や村というものが消えていく。次第に都会と言われる同じ市内の中で、昔のど田舎と言われていた場所が存在している場所があったりするのも仕方のないことである。
 県庁所在地である大都市の市内に位置している場所で、まだ鉄道で電化されておらず、ディーゼルで動く気動車が存在しているところもあるくらいだ。こうなってくると、
「どこからが都会で、とこからが田舎なのか?」
 という定義は当てはまらなくなってくる。
 人それぞれの感覚や感性で田舎と都会を感じ分けるしかなくなってしまい、田舎も都会もそれぞれに勢力が分からなくなってしまっている。今の時代に果たして、
「田舎臭い」
 と言われて、腹を立てるところがあるだろうか。
 むしろ、
「田舎のようなのどかな風景」
 と言われているようで、それが観光産業として生きているのであれば、それはそれでいいのであろう。
 実際に田舎では、
「村おこし」
 であったり、
「町おこし」
 などという言葉が流行り、田舎に人を集めようという趣向が壊された時代もあった。
 さらには、農家の嫁不足解消などのために、マスコミとタイアップして、テレビでのお見合いなどという企画も催されたことがあったが、しょせん田舎は田舎で、なかなか都会のようにはいかなかった。
 だが、そんな田舎の中には、別に人を集めるようなことをしていないところもあった。密かに佇んでいるという表現がピッタリの場所もある。その場所は、
「知る人ぞ知る」
 と呼ばれるようなところであったが、逆に言えば、
「知っている人にしか知られていない」
 というところであった。
 世の中というのは、意外と知られていない場所が結構存在するものだ。ガイドブックのどこにも載っていない。さらには、人を集める努力もしない。そんなところである。
 そんなところは自給自足を行ったり、その土地で獲れた作物を街に持って行って売れば、それなりのお金になるという場所である。
 これからご紹介する場所は損な場所であった。まわりから別に隔絶されているわけではないが、しいていえば、広い森に囲まれていることもあって、まるで樹海のようになったその場所に無理に立ち入ろうとする人もいない。そんなところである。
 最寄りの駅というと、ローカル線の終着駅よりバスに乗れば一時間以上走ったところの山岳部の中腹にあるところだった。山岳部の中腹と言っても、平野になったところであり、確かに人が寄ってくるような場所ではなかった。
 ただ、近くには何もなく、遠くに見える高い山だけが目印になるような、実際には、隣の街まで行く途中の幹線道路が、この一帯の一部を掠めるように走っている。
 つまり、この幹線道路を走っているだけで、自動的にこの一帯に入り込んでいるのと同じであった。
作品名:都合のいい記憶 作家名:森本晃次