都合のいい記憶
彼女の名前は、中川綾音という。綾音はこのホテルには一人で来たのではないという。その情報は、なぜか出版社の方から言われなかった。もちろん、この資料を見れば分かることではあるが、ただ言い忘れただけなのか、故意に言わなかったのかは分からない。
一緒に来ていた男は名前を桜井忠弘という。綾音の年齢は二十八歳、忠弘の年齢は二十三歳だったという。
忠弘という男は実に腰の低い男で、逆に綾音の態度は横柄だったという。絶えず二人は一緒にいたので、その性格は叙実に分かったというが、何でも表に出てくるのは忠弘の方で、彼のそんなへりくだった態度に従業員は困惑していたという。あまりにも相手にへりくだられると次第にウザくなってくるようで、忠弘の態度に対しての憤りがそのまま後ろで彼を操っているように見える綾音に注がれていった。
二人の滞在は一週間だったようだ。元々ここのことは、出版社の社長からの紹介だったので、ホテル側とすれば断ることもできず、VIPとしての待遇だったようだが、その待遇に乗っかってしまったのか、少しの間、ホテルの中にちょっとした風況和音が張り巡らされてしまっていたようだ。
そんな経緯があったこともあって、鎌倉に対しても、最初表面上はホテルらしく丁寧な対応ではあったが、どこか表面でしか接していないような冷たさもあったのを覚えている。もしこの資料を読んでいなければ、きっとこのホテルを最低ランクとして位置付けていたに違いない。
ただ、その理由も分かってしまうと、逆に気が楽だ。何かを聞くにしても馴れ馴れしいくらいに接すれば、却って自分が横柄ではないということを示すことができ、心象もよくなると思っていた。
実際にホテルの人も気さくな人が多く、別に何か緘口令が敷かれてるわけではないようで、二年前の綾音と忠弘の様子くらいは聞くことができたようだ。
従業員だって、最初に冷たかったのが、二人と同じ紹介でここにきているということを知っていたからであり、二人のここでの行動を聞くことはさほど困難ではなく、自然な形で聞けたのはありがたかった。
――それにしても、探偵というのはすごいものだ。よくこれだけ調べ上げたものだ――
と思うほど、日々の二人の行動まで記されている。
まるで一緒にいなければ分からないような内容も多かったが、きっと一緒に来たとされる桜井忠弘から事情は聴いたのかも知れない。
ただ、捜査の綿密さに反比例して、綾音が失踪してからの状況に関してはまったくの皆無だった。
失踪したその日は何事もなかったようだが、その日、彼女は一晩帰ってこなかった。それなのに、同行していた忠弘は騒ぎ立てることはなかった。
「ちょっと、留守にしているだけなので、今晩の夕食はいらない」
と言って、キャンセルまでしているようだ。
これを見ると、夕方に彼女が不在になることは忠弘にも分かっていることだったようだが、実際に翌朝になっても帰ってこず、昼前になって、さすがに痺れを切らしたのか、忠弘が慌て出した。それまでに携帯電話で本人はもちろん、他のあても探してみたが、結局連絡がつかなかったり、彼女の行方は知らないという人が多かった。ほとんどの人はけんもほろろだったというが、横柄な彼女の日ごろの態度が報いた結果と言えるのではないだろうか。
行方不明ということで捜査が行われたが、足取りは掴めなかった。その時に一番に疑われて事情聴取を一番行われたのが忠弘であることは言うまでもないだろう。忠弘の方とすれば、
「何も知らない。彼女からは今晩だけ留守にするが、明日の朝には却ってくるので心配いらない」
と言われていたという。
しかし、刑事は二人が対等な立場だと思っていたので、そのセリフをまともに信じられなかった。しかも相手は女性で自分が男性。そんな従属関係にあるなど思ってもいなかったからだ。それが分かったのはホテルの従業員が二人の関係について、口を揃えて従属関係のような話をしたからであって、いくら女性が年上であってもそんな関係であるというのはやはりおかしいとして、却って忠弘への容疑が深まったくらいだった。
忠弘への容疑は実にグレーなものだったようだ。何しろ失踪した綾音という女性の正体自体は鮮明に浮かんでこなかったらしい。失踪する一年前に今のスナックに入ってアルバイトをする前は何をしていたのか、ハッキリとしないと書いてある。探偵の方でもそれなりに調べたようだが、分かったことと言えば、二十歳を少し過ぎた頃に一度結婚していて、その時に子供ができたことでの結婚だったようだが、どうやら流産したようである。そのあと少しして離婚されているが、その離婚の原因が、流産にあったのではないかという調査報告が書いてあった。
それ以前のことを少しは書いていたが、参考になるようなことは書かれていない。ただ綾音という女は想像以上に男性からはモテたようで、見せてもらった写真からは想像もできなかった。
もらった写真を見ると、明らかに暗さを表に出していて、心のどこかに暗黒部分を持っていることは一目瞭然だったからだ。性格的な暗さに関しては表情を見ていれば分かる気がした。これでも売れていないとはいえ、深層心理をテーマにした小説家の端くれだと思っていたからだ。
写真を見ていると、実年齢は二十八歳だと言っていたが、どう見ても三十後半くらいにしか見えない。化粧の施し方が下手なのか、光線の具合なのか、その表情の暗さも若干影響しているのかも知れない。
以前勤めていたスナックの人たちからもいくつか聴取したようで、それも少し書かれていた。
「何というか、暗さを秘めていて、影があるというんですか? でも男性には彼女のことを気にしている人もいたみたいなんですよ。もっともその人も暗いひとで、それだけに何か執念深さのようなものを感じて、彼女に関しては他の女の子よりも余計に気を付けていたものよ」
というのが、経営者であるママさんの話だった。
「なるほど、類は友を呼ぶということでしょうか? 実際に執念深い彼女のファンの男性はいたんですか?」
と、探偵が聞きなおすと、
「そうね、何か自分では小説家のようなことを言っていたけど、名前は聞いたことはなかったわ。結構来てくれていたお得意さんだったんだけど、いつもカウンターの一番奥の席に腰かけていて、自分の指定席にしていたのよ。だから、その席が埋まっていれば、他の席が空いていたとしても、踵を返してすぐに帰ってしまうようなそんな人だったの。こっちも商売なので、他のお客さんだったら、『まあまあ』って宥めて、入店を促すんだけど、その人にだけは入店を促すことはしなかったわ」
どうやら、かなり風変わりな人だったようだ。
それにしても小説家というのはドキッとした。
――この事件に自分以外の人が一体どれだけ関わっているのだろうか?
と考えさせらた。
だが、彼女はその後、出版社に作品を書いて持ち込んできたというではないか。ということは、その作家という人がその後彼女に何か関係していたのかということになるが、そのことに関して探偵の資料には書かれていなかった。
――調べたのだろうか? それとも調べたけど、何も出てこなかったということなのだろうか?