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都合のいい記憶

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 一度瞬きをすると、今度は同じ場所で、今までいなかった人が現れた。だが、何かがおかしい。目の前にいる人たちがまったく動いていないのだ。空気は凍り付いてしまっていて、呼吸すら感じられない。顔色は皆真っ青で、その世界が立体なのか、平面なのかの区別がつかないほどだった。
 しかし、これもよく見ると、ゆっくりであるが動いているようだ。その証拠に事務の女の子が、ここから見える給湯室でポットに水を入れているのだが、その水がゆっくりとポットを満たそうとしていた。
 まったく凍り付いてしまったわけではなく、限りなく凍り付いてしまったかのような時間がゆっくりにしか進まない世界だったのだ。
 そう思うと、凍り付いたのは時間だったことに気付いた。実際には完全に凍り付いていないわけだが、見えている光景は完全に凍り付いている。そんな状況は夢でしか考えられないではないか。
「夢でよかった」
 と思うと次々に新しい場面が出現し、鎌倉を脅かしている。
 その都度小さな驚きに変わっていくのだが、その時々の衝撃を自分なりに理解できているのだろうか。理解できないから、まるで夢でも見ているような感覚になっているのかも知れない。それが夢だとしてもである。
 つまりは、夢だと思わせるためには、これでもかとばかりに夢としての演出を見せつける。その必要があるということだ。
 そんな不思議なスパイラルに見舞われている鎌倉は、次第に夢が覚めてくるのを感じた。普段から、夢から覚める瞬間が分かると思っていたからだが、その感覚は本当に目が覚めると亡くなっているもので、この瞬間は毎回、
――ここで夢が覚める――
 と感じる時である。
 毎回感じているというのを意識できるのは夢から覚めるこの瞬間だけで、目が覚めてしまうとまったく忘れてしまっている。だが、
――毎回感じるんだよな――
 という思いが残っているのは意識の中にあるようで、ふとした時に、夢の一部を繰り返しているような気がするのは、この感覚があるからなのではないだろうか。
 これはデジャブとは違うもののようだが、デジャブと言えば、最近の鎌倉は、
「前にも同じことを感じたことがあるような」
 という思いに至ることが多かった。
 この日も、湖畔に降り立った時、
「以前にも見たことがあるような」
 と思ったではないか。
 そんな思いはあっても、この場所に来るのは初めてだということを自信を持って言えるにも関わらず、どうしてもすべてを思い出せないのは、思い出すことに恐怖であったり、不安であったり、そんなものが渦巻いているから、自己防衛心が余計なことを考えさせないようにしているのだろう。
 自分をいかに納得させることができるのか、鎌倉は考えてみた。しかし、考えれば考えるほど堂々巡りを繰り返す。なぜなら、
「考えるということは、何かの比較対象があって、そのどちらを選ぶかということだからだ。
 夢に比較対象となる記憶が残っていないのだから、考えるということ自体が矛盾しているようなものである。
 だが不思議なもので、これを夢だと思うと、その瞬間に夢から覚めたりすることもあるようで、この時などまさにその通りだった。夢から覚めるきっかけとしては、怖い夢を見ている場合、自分が本当に危険になった時、今にも殺されそうになった時など、夢の中で断末魔の叫びを聞くことはない。逆に楽しい夢を見ている時は、最後のハッピーエンドを迎えることはできない。楽しい夢などは、ひょっとするとハッピーエンドを見たと思っているかも知れないが、それはあくまでも想像の中で見たという錯覚に過ぎない。それに比べて自分が死に直面していて実際に死んでしまうことは想像できない。実際に死んだこともなければ、そもそも死んでしまえば、夢を見続けることもできないからだ。
「気が付いたら死んでいた」
 などという笑い話にもならあい洒落があるが、これなど矛盾の果てだと言ってもいいだろう。
 気が付いたら死んでいるわけがない。死んでしまっていれば気付くことなどできないからだ。
 また、一度どこかのお寺に水飲み場があり、その水は長寿で有名なようだが、ガイドさんの話の中で、
「一度飲めば一年、二度飲めば十年、三度飲めば死ぬまで生きられます」
 というブラックユーモアがったが、これも同じようなものである。
 死ぬまで生きられるというのは当たり前のことではないだろうか。しかし一度目も二度目も実は矛盾したことを言っているのであって、人間誰も自分の寿命を知るわけではない。だから一年、十年長生きができると言っても、一体いつからの起算なのかの基準がないのである。
 ひょっとすると、ブラックユーモアを逆手に取ると、三度飲む方が、そのままの寿命なので、何も得をしているとは言えないのではないだろうか。このブラックユーモアには、そんな裏の発想も含まれている。実によくできたユーモアとは言えないだろうか。
 さて、夢から覚めた鎌倉だったが、まだ身体は全然自由にはなっていない。まだ金縛りが続いているような気がしていた。夢から覚めたという意識はあるのだが、それが本当に信憑性のあるものなのか、自分でも疑問だった。
 夢というのはいろいろな矛盾やジレンマを抱えているのかも知れない。夢を見る人が現実で抱えている矛盾を夢が解決しようとしているのだろうか。夢に解決できるわけではないので、無理強いをさせたことで、夢は矛盾に満ちた世界になっているのかも知れない。
 夢というのは、そういう意味では実に都合よくできている。死を目の前にしたり、幸福が目の前にありながら、それを得ることはできない。だが、夢の世界で現実逃避ができて、解決できないまでも、幾分か、気が楽になることもあるだろう。
 この日の夢は、自分が行方不明になって。どこかに連れ去られるというものだったが、肝心の連れ去った連中が出てくることはなかった。自分の中で想像ができないのか、それとも夢というものが他の日との登場を拒絶したのだろうか。
 誰かと夢を共有しているのではないかとも思ったことがあったが、すぐに、
「そんなバカなことがあるはずはない」
 といって、真っ向から否定した。
 ここには否定できるだけの材料や信憑性があるわけではないのに、簡単に否定できるというのは、自分の中に理性や常識というものが備わっているからだろう。これは人間が生きる上で最低限の本能を形にしたものなのかも知れない。
 ただ、鎌倉は理性や常識という言葉が嫌いだった。特に常識という言葉が嫌いで、
「社会一般の常識」
 などという言葉を聞くと、ヘドが出るほどであった。
「一体、常識なんて誰が決めたんだ。決めたやつってそんなに偉いのか?」
 と言いたいくらいだった。
 常識や理性がなければ無法地帯になってしまい、秩序が守れなくなり、生命の安全さえも脅かされるのは分かっている。しかし、それは一部の権力者などのわがままによるものだという考えは危険なのだろうか。決められた常識を守るということがどういうことなのか、誰か分かりやすく説明してほしいと思うほどだった。
作品名:都合のいい記憶 作家名:森本晃次