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都合のいい記憶

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 雑誌に記事を掲載するルポライターなどはネットでも記事が出せるから、それほどでもないのかも知れないが、
「本を売ってなんぼ」
 という作家には厳しいものだ。
 確かに電子書籍というものがネット上にはあるが、最近の小説のジャンルはライトノベルであったり、ケイタイ小説であったりと言った、鎌倉が書くような話とはまったく違っている。それを思うと、
「俺はこのまま小説を書いていていいのだろうか?」
 と思わないわけにもいかなかった。
 小説を書くということは、自分を顧みることになると言ってもいいのだろうが、鎌倉もノンフィクションを書くということは嫌いだった。自分の経験からの話であれば、題材にはできるが、そのまま書くということは彼のプライドが許さないのだ。
「何もないところから新しいものを作る」
 これが鎌倉のモットーだった。
 そう思うと、あまりどこかに行って取材するということはなかった。ドキュメントを書くのであれば、取材は不可欠であるが、そうではないので、書く場所はそんなにどこかに行ってというわけではなかった。
 鎌倉が書く話は、深層心理を抉る話が多いのだが、その題材として心理学を持ち出すのだが、その心理学が完成するに至った歴史を見ていると、結構いろいろな発想が生まれてくるのが分かった。
 例えば、どこか地方の名も知らぬ村が発祥になって、そこに昔から伝わっている伝説がその心理学の走りだったりする。
――昔の心理学の先生は、そんな地方の伝説とかを研究していたのだろうか?
 と感じるほどで、実際に地方でなくても、一般的に伝わっているおとぎ話から、心理学の発想が生まれそうなものも結構あるような気がしていた。
 そういう意味で鎌倉は、一時期図書館の郷土資料室で研究したこともあった。これは大学時代のことで、まだ自分の作風が確立される前、つまりは小説家としてデビューする前のことで、まとめた内容を小説にしようと思ったが、結局できなかったということもあった。
 その時に一度、
「俺は何をやってもダメなんじゃないかな?」
 と感じた時だった。
 それだけいろいろやってみて、最後の手段として図書館で郷土史を調べるという方法を選んだのだったが、そこが鎌倉にとっての最終ラインであり、結界が見えていたのかも知れない。
 だが、それから少しして、自分がひょんなことから小説家としてデビューできた。(これは大きな声では言えないことなので、ここでは割愛します)
 結界が見えたことが、小説家デビューに繋がったかも知れないと思ったが、本当にそうだったのだろうか。
 結界だと思ったことはいわゆる、
「破ることのできない限界」
 というイメージを持っていたが、そうではなかったのではないだろうか。
 そう思うと、鎌倉は自分が小説家になった時、有頂天からなかなか目が覚めなかった時、我に返ることができたのは、
――この時結界だと思った壁が見えたからではないか――
 と思ったからであった。
 鎌倉にとって小説を書くということがどういうことなのか、今でも分かっていないが、一度感じたような気がしたことがあった。
 その時は、漠然としていて、
「将来にもう一度感じる時が来て、その時には必ず答えを見つけられるだろう」
 と思っていた。
 しかし、今その時のことを思うと、
「あの時に考えたことが本当の答えだったのかも知れないな」
 と思うことであった。
 ただ、それがどういうことであったのかというのを思い出そうとすると、どうしても思い出すことができない。思い出すことができないと思ったということは、漠然としているつもりでも確立した考えを持っていたということだと感じた。
 以前に将来のことを思い、そして将来に過去を思い出そうとする。過去から将来に向けて見たその先が本当に今の自分であり、今の自分が過去を思い返したその時が、本当に自分の過去だったと言えるのだろうか。過去から見て未来が違っているのであれば、未来から見た過去も当然違っている。今を起点にするか、過去を起点にするかで違うわけではない。この発想は、
「タマゴが先かニワトリが先か」
 という禅問答のような発想と同じではないだろうか。
 どちらから見ても同じであるからこそ、永久に抜けることのできない袋小路が控えていて、堂々巡りを繰り返すという結果をもたらすのかも知れない。
「堂々巡り」
 またしても、のしかかってくる言葉だった。
 また、最近になって考えるということがどういうことなのか? と感じるようになってきた。考えるということと、感じるということ、この二つを比較して考えるからだった。
 鎌倉は小説を書く時、あまり考えない。むしろ考えないようにしていると言った方がいいかも知れない。
 下手に考えると我に返ってしまって先に進めなくなる。集中しているということと関係があるのだ。集中していると、妄想するのと同じ感覚だ。妄想や想像は、考えるわけでなく感じるものだ。忘れっぽくなっているのもそのせいかも知れない。忘れてしまうから、忘れる前に書いてしまおうという考えが、先々へと進み、先の二、三つの文章を最初か考えて書く。ただ、これも考えているというよりも、イメージしているというべきの気がする。
 よく人から、
「何を考えているんだ?」
 だったり、
「もっと考えろよ」
 と言われるが、考えるということは何に対して考えるということなのだろう?
 自分の行動やこれからのことを考えるとした場合、どちらを選べば正解なのかという発想が、考えるということではないだろうか。つまり何か比較材料がなければ、考えることもできない。
 もし、未来のことを真剣に考えなければいけない時、何が正解なのか分かるはずもなく、なるべく間違った選択をしないようにするには、今までの経験や勉強していろいろな場面を想定することのできるようになっていることで、なるべく正解に近いものを選択できるというものである。それは将来において、自分が後悔しないようにするための選択であって、間違っていても、自分で選んだのであれば、それが後悔に繋がるとは言えない。
「自業自得」
 ということになるからだ・
「考えるということは、間違いないように選択することだ」
 ということであれば、何もないところから新たに生み出す場合はどうなのだろう?
 その場合は選択ではなく、創作である。
「創作は考えるのではなく、感じることだ」
 という話を聞いたことがある。
 想像や妄想は考えて浮かんでくるものではなく、目を瞑って瞼の裏に写るものというのは、感じたものではないだろうか。
 そういう意味で、鎌倉は考えることではなく、なるべく感じるようにすることにしている。
 それが小説執筆などの芸術面において一番重要なことだと思う。だからこそ、小説執筆の時に、考えたりしないのだと自分で理解していた。
 集中するということは感じることであり、それが鋭くなってくると、感性というのではないだろうか。ただ感じるだけでは感性ではない。鎌倉は自分を芸術家だと思いたいので、そう考えるようにしていた。
作品名:都合のいい記憶 作家名:森本晃次