都合のいい記憶
運転手を待たせている手前、そうもゆっくりしていられない。鎌倉はそのまま踵を返してバスに乗り込んだ。もう一人の自分は、バスに乗り込んだ自分など関係ないと言った様子で、さっきと変わらず女の後ろ姿を眺めているように思えて仕方がなかった。
バスはそのまま、湖畔沿いに走っていき、ホテル前に着いた。湖畔を走り出してからなかなか到着しないことを感じながら、気が付けばここまで来ていたというべきか。ちょうど湖が綺麗な円を描いていることで、ホテルを中心に、左右対称の大パノラマが広がっているかのように見えて、それが壮大さを演出していることが分かった。
なかなか近づかないように見えたというのも、この大きな左右対称がもたらした錯覚なのではないだろうか。鎌倉はそれを承知しているつもりなので、自分を納得させる必要はないように思えた。
ホテルに到着すると、ホテルマンが数人出迎えてくれた。
「いっらっしゃいませ。おカバンをお持ちいたします」
と言って、彼の手からアタッシュケースを奪うと、思ったより重たいことに一瞬怪訝な表情を示した。それは重たさに怪訝に感じたわけではなく、大きさの割に重たいことに彼は違和感を覚えたのだ。
鎌倉はフロントカウンターへ行き、フロント係に軽く会釈をした。
「鎌倉様ですね。お待ちしておりました。こちらにご記入ください」
と言って、宿泊者カードを示した。
これだけを聞くと、実に事務的に感じるが、フロント係は絶えず笑顔で、ホテルの教育が行き届いているというのはよく分かった。鎌倉は職業を何と書こうかと思ったが、せっかくなので、
「小説家」
と書いた。
それを見て、フロント係は一瞬こわった表情になったが、それを鎌倉は見逃さなかった。というよりも鎌倉はここにきてからホテルの人間の一挙手一同をじっと見守っていると言ってもいいだろう。
彼は小説家だ。人間観察は今に始まったことではない。人を見ては観察を繰り返す。それが癖になってくると、小説を書く上での強力な武器になることは分かっている。彼にとって癖というのは忌まわしいものであったが、今ではその忌まわしい癖ともうまく付き合っているつもりだ、癖も慣れになってしまうと、意外と居心地がよかったりもする。そのことに気が付いたのは最近のことだった。
部屋に案内されたが、部屋は自分が思っていたよりも広かった。一部屋だけではなく、隣にも部屋があり、そこが寝室になっていた。寝室と仕事部屋が別になっているようで、鎌倉は嬉しい気分になった。
自宅では寝室がそのまま仕事部屋になっていて、それも実はこじんまりとして好きなのだが、どこかビジネスホテルのようで気に入らなかった。今回このホテルに赴いたのもそんなビジネスホテルのようなところが嫌だったからだ。
このホテルは決して安いわけではない。一介の売れない小説家が泊まれるようなところではないが、このホテルが五十周年目を迎えるということで、かつてのお得意様に対してだけの特別価格で宿泊できるということだった。
もっとも、あまりメディアへの露出が極端に少ないホテルなだけに、情報も馴染み客にしか提供されていない。鎌倉がこの情報を知り得たのは、出入りの出版社が、このホテルのお得意様になっていたからで、元々編集者社長のお気に入りだったということだ。売れない小説家ではあるが、社長とは懇意だったので、紹介していただいたという経緯によるものだった。
快く紹介してくれた宿泊場所であるが、何か曰くがありそうな気がしているのは、何かの虫の知らせであろうか。
「確か、編集者のあの社長、何となくいつもと違ったような気がするな」
と思ったのだが、まだその時は、よく分かっていなかったのだ。
鎌倉は、自分でも気づかぬうちに、その渦中に入り込んでいた。その前兆がさっき湖畔で感じた、
「以前にも来たような気がする」
という一連の感情だったのではないだろうか……。
行方不明
その日は到着した時間が夕方だということもあり、小説の執筆は最初から考えていなかった。到着すぐに、
「ご夕食は?」
と聞かれた。
「どういうことですか?」
と訊ねると、
「このホテルでは、レストランでのお食事も、お部屋でお食事もお客様がご自由に選べる仕組みになっております。また、和食、洋食もお選びできます。メニューに関しましてはそちらのテーブルにございますので、ご確認ください」
ということだった。
せっかく景色の綺麗なホテルに来たのだから、部屋でコソコソと食べようとは思わなかった。そもそもがビジネスホテルのような狭いところではない場所を所望していたので、食事は食堂でと思っていた。
「じゃあ、レストランに参ります。メニューはそうですね。洋食でお願いしましょうかね」
と言うと、
「かしこまりました」
と言って、下がっていった。
西洋風のホテルなので、洋食というのも普通に考えられることだった。
「まあ数日は滞在するわけなので、選べるのであれば、一度くらいはどこかで和食もいいかな?」
というくらいに感じていた。
ビジネスホテルの滞在は結構今までにもあった。執筆目的が多かったのだが、やはり静かなところでという目的であったが、作業するにはあまりにも陳腐な状況に、最近ではまったく使用しなくなった。
今回の執筆に関しては、久しぶりに出版社から依頼があったからだ。このホテルを紹介してくれた出版社とは別で、その出版社はあまり馴染みではなかったが、何かどこかで鎌倉のウワサを聞いたとかで、
「それならば」
と、正直複雑な気持ちだった鎌倉の背中を押した。
複雑な心境だった理由は、馴染みもない出版社がなぜ売れてもいない自分の作品に興味を持ったかということであるが、今後心理的な視点から書ける作家を探していたという。その証拠にその出版社から最近その出版社からデビューした作家の作風が、鎌倉に似ていたこともあって、
――まんざら担がれたわけでもないようだ――
と感じたことで、この依頼を受けたのだった。
そこへたまたま立ち寄ったここを紹介してくれた出版社の以前馴染みだった人と偶然会ったことで、ここを紹介してもらったという次第である。
「そんなにいい環境があるのなら行ってみたいですね」
というと、
「ええ、ぜひ。今だったら、うちの紹介だということにすれば、半額以下くらいで宿泊できますよ」
と言われて、
「ほう、それはすごい。じゃあ、ぜひ」
という運びになったわけだ。
半額ということにも大いにそそられるものがあったが、何よりもまわりの環境から隔絶されている割には、まるで西洋のお城のような宿泊施設に、まわりが湖という環境に魅せられたというわけだ。話を聞いているだけでウキウキしてきて、ひょっとすると、その時の思い入れの激しさが、最初にここに来た時、
「初めてではないような気がする」
という気分にさせたのかも知れない。
こんな環境にいるだけで、何か小説のヒントが生まれてくる気がするくらいで、今までこんな素晴らしい環境があまり世間に知られていないというのもビックリであった。