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短編集85(過去作品)

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 風が吹いていて、緑が揺れている。それを微妙に描き続けるのは、難しいことだ。
「釣りが好きな人って、意外と短気な人が多いんだぞ」
 という話を聞いたことがあった。その時は、
――そんなものなのか。ちょっと信じられないな――
 と感じたものだが、実際に微動だにしない目の前の風景を見ていると、時間を感じさせない。きっと集中しているからだろう。
 じっと山を見つめて、頭をキャンバスに落とす。山を見つめる時間が長ければ長いほど遠くに感じられるのは気もせいであろうか。
 コンビニでバイトしていても、山の光景が瞼の裏に焼きついているので、時々目を瞑るとよみがえってくる。
――ここは何と狭い空間なんだ――
 壮大な風景を見続けていると、世界が果てしなく広がっていくように思う。山が遠く、小さく感じてくるのもそのためだ。
 今までの自分の人生を思い出してみる。そういえば、気持ちに余裕を持ったことが果たしてあっただろうか?
 大学時代には確かに時間的に余裕があり、開放感に満ち溢れていたかも知れない。だが本当に気持ちの余裕があったのかと言われると、どう答えていいか分からない。
 絶えず橋本は何かを考えている男だった。その時々で違ってくるのだが、他愛もないことを考えていることもあれば、何の脈絡もないのに、数学の公式のことを思い出していることもある。理数系でもなかった自分がなぜそんなことを思い出すのか、心境が分からない。
――しかし、何事にも原因、根拠というものがあるはずだ――
 という考えでいる橋本にとって、考えたことに対してさらに追求しようとするから、考えが袋小路に入ってしまうことがある。決して悪いことではないのだろうが、忘れっぽいことを気にし始めた最近では、考えすぎが原因ではないかと思うようになっていた。
 コンビニのバイトが明け方まで続く勤務の時は、近くの喫茶店で朝食を摂るようにしている。そこは早朝の七時から開店している店で、駅の近くということもあって、八時近くになるとサラリーマンがちょくちょく入ってくる。
 ここにいれば、あまり余計なことを考えないで済むと思ったが、結構いろいろ考えているようだ。だが、それでも楽しいことを考えていることが多く、喫茶店という雰囲気が気持ちに余裕を与えてくれるのだ。
 コーヒーの香りが、睡魔を心地よいものにしてくれる。睡魔が襲ってくるのを避けようという気はない。気持ちよさに身を委ねてもいいと思っている。特に放射冷却現象で日が照っているのに寒い朝などは、コーヒーの香りが食欲を誘い、店の中へと気持ちを誘うのである。
 一流商社のサラリーマン時代に感じたことのない思いである。コーヒーは飲んでも、襲ってくる睡魔を紛らわすため、仕事が嫌なわけではないだけに、コーヒーはただのアイテム以上に思えなかったのだ。
 もし少しでも仕事が嫌だったら少しは違っただろうが、基本的には仕事中心の生活、頭はそれ以外に働いていない。
 コーヒーの香りに酔っていると、香ばしいパンの焼ける匂いが頭を刺激する。芳醇なバターがたっぷり塗られて、持ってきた時には、程よく溶けている。
 モーニングセットの醍醐味はこの香りのハーモニーにある。爽やかなクラシックの流れる店内に暖かさが漂ってくるのは、香りのハーモニーのおかげであろう。
 いつもカウンターの奥に一人女性がカップを両手で抱えるようにして飲んでいる。部屋の中が寒いわけではないのだろうが、肩をすくめるようにして飲んでいる姿をじっと見ていると、時々ふっと溜息をつくかのように天井を見上げている。橋本がずっと見ているのが分かっているのだろうか。
 あまり人の顔を覚えることが苦手な橋本が、やっと覚えた頃だから、四、五回は見ているだろう。街で出会っても声を掛けても相手に間違いないくらいの自信はある。
 その日は思わず声を掛けてしまったが、真っ赤なセーターが似合っていたからだろう。
「こんにちは、よくお会いしますね」
 隣に座った時も、声を掛けた時も、それほどビックリしたようなリアクションはなかった。まるで声を掛けられることが分かっていたような感じだった。
「そうですね。初めてお話するような気がしませんね」
 そう言ってはにかんでみせた。表情に少しだけ緊張があるように思えるが、本当に初めて話をするような気がしないほど、違和感がない。
「どこかでお会いしましたっけ?」
 彼女を見ていて素直に出てきた言葉だ。確かにどこかで会ったことがあると言われれば次第にそんな気がしてくる。
「気のせいかしらね。失礼しました」
 だが、この言葉がお互いの緊張を解き放つことになったのは間違いない。真っ赤な口紅が印象的な小さな口にコーヒーカップが運ばれる。
 カップの中のコーヒーをすすりながら、橋本を見つめる目が上目遣いで、妖艶に見える。
――綺麗だ――
 最初に綺麗だと感じたのは、やはり真っ赤な口紅に彩られた口元だろう。女性と正対した時に最初にどこを見つめるかと言われれば、
「どこだろう?」
 と、今までなら答えていたはずだ。しかし、今回はハッキリと
「真っ赤な唇」
 と、答えることができるだろう。照明の加減にもよるのだろうが、これだけ真っ赤なのに派手に見えないのだから、口紅を取ると、かなり雰囲気が違ってしまうに違いない。
 口紅を落とした顔を想像していた。なかなか想像などできるものではないと思ったが、少なくとも清楚な雰囲気であることには間違いないだろう。だが、上目遣いな表情は、清楚と言うより妖艶さを醸し出している。どちらも兼ね備えた女性のようだ。
 その時にどんな話をしたかは、ハッキリと覚えていない。女性と話をして緊張もしないのに、舞い上がってしまって話の内容を忘れてしまうなどなかったことだ。確かに女性と話をすること自体が久しぶりなのだが、それにしては緊張していない。まるで学生時代に戻ったような感覚があるだけだ。
 学生の頃は緊張などなかった。怖いものなしという感覚が強かったが、話の内容も夢の話だったり、前向きなことが多かった。将来についての不安と期待に満ち溢れていた頃のことだ。
 学生時代にあった不安、それはあまりにも漠然としたものだ。それだけに言い知れぬ雲のようなものが目の前に広がっていて、雲を掻き分ける夢をよく見たような気がする。夢に出てくる雲はまるで綿菓子のようで、感触があったかと思うと、溶けてしまう。どんな感触かは思えていないが、触った瞬間に甘さを感じたように思うので、綿菓子と同じ感覚だろう。
 それから先はテレビで見た四次元の世界。どこからか声が聞こえてくるが、白くただ広いだけの部屋に佇んでいるのは自分だけ、きっと共有できないだけで、同じ空間が他にも存在していると感じる。声は数人聞こえ、その一つは自分の声のようだ。
 自分の声を一度テープに取って聞いたことがある。
「これが僕の声?」
 驚いて聞き返したほどだ。自分が感じているのとではまったく違うではないか。しかも何もない部屋なので、かなり篭って聞こえる。それでも自分の声だと思うのは、四次元の世界の裏側には、もう一人の自分が存在しているという確信めいたものがあるからに違いない。
「夢でお会いしたのかしら?」
作品名:短編集85(過去作品) 作家名:森本晃次