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短編集85(過去作品)

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繰り返す本の世界



                繰り返す本の世界


 橋本洋介三十歳、勤めていた会社を辞めて半年が経った。
 十年は勤めようと頑張ってきたが、どうしても我慢できずにやめてしまったのだが、今は後悔もしていない。
「一ヶ月続けば、三ヶ月続く。三ヶ月続けば一年。一年もてば十年は勤めていけるものだ。そう思って頑張りなさい」
 という訓示を聞いたのは、入社式の時だった。入社式での社長の言葉などあまり覚えていないが、それだけはハッキリと覚えている。本気で信じていたと言ってもいい。
 ずっとその言葉を胸に頑張ってきた。確かに前の年までは、上司には恵まれていて、
――よし頑張るぞ――
 と思えるような人ばかりだった。それは幸いだったと思っている。しかし、上司一人変わるだけで、これほど自分のペースを狂わされるものだとは思ってもみなかった。会社で仕事をしている時だけであれば、まだ良かったのかも知れない。だが、これが私生活にかかわることになるとそうも行かなくなった。
 あまりにイライラしている自分を見かねて、その時に付き合っている女性が離れていったのだ。
――それだけの女だったんだ――
 と思えればよかったのだろうが、それだけの余裕が気持ちにはなかった。あきらめきれずに嫌がる相手に何とか連絡をつけようと、今から思えばストーカーまがいのきわどいことをしていたように思う。
――気持ちが滅入ってくると、普段考えないようなことまで考えてしまうんだな――
 今だから感じることだ。だが、その時はそんな余裕などない。
 一日のうちで一番の楽しみは眠る時、何も考えないでいいからだ。では一番嫌なのは?
 当然起きる時だろう。
――現実に引き戻される瞬間――
 それが起きる時なのだ。起きる時にロクなことを考えない。悪い方へ悪い方へと考えてしまう。よほどいい夢を見ていたのだろうか。夢の内容を覚えていないのが悔しい。
 男にとって仕事が大事なのは分かるが、今の世の中を考えると一概にはそうも言い切れない。一昔前は、仕事人間について問題になっていた。
 定年退職を迎えて、何の趣味も持たず、それまで仕事一筋で頑張ってきた人が、ぼけてしまうという問題。今も引きずっているのだろうが、それが頭から離れない。中には家庭を顧みず、犠牲にしてきた人もいるだろう。その時が来てまわりを見ても、自分のいる場所さえ分からない。いわゆる「浦島太郎」のような気持ちになるのではないだろうか。
 人間、気を抜けば思っていたよりも身体に来るものだ。年が明けると風邪を引く人が多くなるが、ウィルスだけの問題ではないだろう。年末の忙しさから一転、休みがあったりすると一気に気が抜けるものだ。自分の身体が生身の人間だということに気付く瞬間でもある。
 しかし喉元過ぎれば何とやら、治ってしまうと忘れてしまう。痛い、苦しい時が過ぎれば忘れてしまうのも、人間の悲しいところではないだろうか。
 そんなことを考えていて、
――すぐに忘れるようにいつからなったのだろう――
 テレビを見ても何も感じなかったりする。きっと頭の中でいろいろ考えているからだと思うのだが、ついさっきのことすら覚えていない。
 それが仕事にも影響する。あれだけ一生懸命に頑張ってきたのに、覚えられないというたったそれだけのことが致命傷になるのだ。
 仕事を終えて一段落、会社の帰りに後輩と居酒屋へ行っていた日々も懐かしい。目の前の仕事だけをこなし、居酒屋で上司の陰口を叩くというのも日課だった。それがストレス発散になるのなら、悪いことではないだろう。翌日の活力になると思えば、アルコールの量も増えてくる。
 そんな毎日だったのに、ある日を境に呑むのをバッタリとやめた。誰の付き合いが悪くなったというわけではない。しいて言えば橋本自身が呑むことをやめたのだ。
 疲れがあったのも事実だ。部屋に帰っても何をするわけでなく、ただついているテレビに視線が向っているというだけだ。コマーシャルを見ている時、あまり意識していないはずなのに、皆の顔が真剣に見える。それと同じことだ。
 会社への未練はなかった。どちらかというと仕事への未練が残ったかも知れない。
 学校で勉強してきたことを生かしての仕事だったので、
「今の世の中、学校で専攻してきたことをそのまま仕事に生かせるなんて珍しいんだぞ。もっと頑張ってみないか」
 と先輩に言われた時が、一番やめるのを躊躇った時だった。専門的な知識を身につけていれば就職は絶対だというのは昔の話。今は専門学校も多ければ、卒業する学生も多い。なかなか学校でも勉強を生かせる仕事に就ける人はいないだろう。
 仕事人間になりたくないという思いから、やめる一年前から趣味で油絵を始めた。絵心などまったくなかった学生時代、しかし芸術と、ものを作ることに興味のある橋本は、仕事以外での趣味の中で、すぐに油絵を思いついたのだ。
 電車から見える遠くの山が、そのきっかけだった。出張で行った先の田園風景。ただ目の前を流れているだけだったのだが、急に遠近感が取れなくなった。
――目が疲れているのかな?
 そう思い、何度も目を瞬かせた。すると、今度はクッキリと山の緑が綺麗に見えたのだ。最初に感じたよりも遠くに見えたにもかかわらず、緑も鮮やかな木々の一本一本が見えているようだった。
――これは描いてみたい――
 と、その時に感じた思いをそのままに、今でもキャンパスに向っている。
 好きなものが見つかったことで、会社をやめる決心がついたのかも知れない。いずれまた復帰する機会もあるだろうが、とにかく頭を切り替えることが大切だった。
 アルバイトの口はすぐに見つかった。知り合いがやっているコンビニでのアルバイトだ。シフト制なので、今までの勤務とも違う。実際に商品を扱ったり、品質管理も手にとって見たりと、却って数字だけを追いかけて仕事をしていた頃と違い、新鮮だった。
――第一線というのも、なかなかこれで面白いな――
 と思ったものだ。
 知り合いからすれば、
「君のように一流商社にいた数字に強い男がいてくれると心強いよ」
 と言ってくれて、それも励みだった。
 一流企業にいた人間がリストラなどでアルバイトをしているケースも多いようだが、きっと苦労が絶えないだろう。自分の中にあるこだわりと、現実に対する妥協のジレンマをどこまで自分が消化できるかである。その気持ちは橋本にも痛いほどよく分かる。
 橋本のように自分からやめた人間はまだいい。自主退職といっても、実際はやめさせられたのだ。プライドがぐちゃぐちゃだろう。
 コンビニのアルバイトがシフト制というのもありがたかった。夕方くらいから入る時は昼間油絵をできるからだ。ゆっくりとキャンバスを抱えて出かけるのだが、一つの作品をじっくりと仕上げることを目標としている。まず描きたいと思ったのは、平地から見える遠くの山だった。それはいつか車窓から見た油絵を描こうというきっかけになった山である。
 山肌に太陽が当たっているのを同じ角度からじっと見ていると、短時間で様相が変わってくるのがよく分かる。木々の一本一本にそれぞれ趣が違っていることも分かってくるのだ。
作品名:短編集85(過去作品) 作家名:森本晃次