短編集85(過去作品)
影とは何と不気味な響きであろう。自分の影は実際の自分を写しているように見えるのに、他の人の影は歪んで見え、自分の影が立体なら他人に影は平面にしか見えない。特に壁などがあって直角に見える時というのは、紙が折れ曲がって見える時そのものである。
影にも濃い影と薄い影がある。俗に影が薄く見えるとその人の寿命も知れているというが、実際はどうなのだろう? 最初に見えた人間が本人か、他人かによっても代わってくるような気がする。
そういえば総司も一度自分の影が薄く見えた時がある。その時は誰にも言わず黙っていたが、それからすぐに肺炎を患い、かなりきつい時があった。それも自分の影が薄くなっているのを見てからしばらくしてで、もし肺炎にならなければ薄い影を見たことを思い出すこともなかっただろう。
「影が薄いやつだな」
肺炎が治って少しして、学校の友達にからかわれたことがある。中学の頃だったが、悪気はなかったのだろう。しかし、その言葉に敏感に反応してしまった総司は、気がつけば友達に殴りかかっていた。他の連中が必死に止めてくれたので怪我人が出ずに済んだが、一歩間違えば大変なことになっていたに違いない。
殴りかかったのは無意識だったが、途中で我に返っていた。正気に戻って行動を起こしていたことに気付けば、もう途中でやめることなどできない。結局、身体は本能の赴くまま相手に襲い掛かっていたのだ。中学生といえば、言動に敏感な年頃であるにもかかわらず、自分の言動に責任を持てないこともある。無責任な言葉で騒動を起こすことも稀にあるのだ。
自分の未熟さも、中学生という年代の中途半端さもその時に自覚した。成長過程の中でどうしても通らなければならない道でもある。中学の頃からだろうか、いろいろなことを頭の中で考えるくせがついてしまった。
考えていることが一環している時と、そうでない時がある。ただ、いつも何か比較対象を考えていることが多かった。例えば、夜と昼であったり、男と女であったりと、比較することで、どちらか一方を深く考えたりしていた。
中学生というと思春期への入り口で、多感な年齢でもある。総司の場合はまだ女性に対してそれほど興味の深い頃ではなく、友達が騒いでいるのを遠くで見ている程度だった。
しかし、女性の身体への興味はあった。それも最初は友達から聞かされる話からの情報だけだったので、中途半端なものだ。精神が肉体の成長についていけない中学時代、それだけに想像はとどまるところを知らない。
まわりの女の子への興味はそれほどなかった。どちらかというと、大学生くらいの女性に興味を持ち始めていた。時々和服の女性を気にしていたのは、住んでいた地域にお茶やお花を教える花嫁養成学校のようなものがあったからだ。そんな中で、時々和服に身を包み、やってくる女性に興味を持っていた。
その時の女性は、いつも後姿だった。和服の時は後姿しか見たことがなく、普通の洋服の時は逆に前からしか見たことがなかった。そのことに気付いたのは、かなり後になってからで、意識すれば、却って気になってしまう。だが、それでも意識してから着物の時は後姿しか見ることができず、洋服の時は前からだった。もうただの偶然とは思えない。
――本当に同じ人なのだろうか?
後姿の時に顔を確認できるわけではないので、本当に同じ人かどうか分からないが、総司には確信があった。ゾクゾクするような同じ思いを感じるからだというのは、理由になるだろうか。自分だけで感じていることなので他の人には話していないが、それも総司が大学生くらいの年頃の女性に興味を持った理由であろう。
大学時代に行った温泉宿での仲居さんが、その時に見た後姿の女性に似ていたようにも感じた。ハッキリと分からないのは、仲居さんの顔を見た瞬間に、それまで覚えていた中学時代に気になっていた女性の面影が頭の中から消えてしまったからだ。新しいイメージで頭の中がいっぱいになってしまい、頭の奥深くに封印されてしまったのではないだろうか。
一つのことに集中したりするとまわりのことが見えなくなる悪いくせを自覚している総司だったが、まんざらそんな性格が嫌いではない。集中力が散漫になるよりも一つのことをコツコツとこなせるような性格を自覚することで、自分を生かせる道を模索すればいいと考えていた。
今のところはそれでうまく行っている。仕事も順調、まわりからの信頼もそれなりにあるようだ。自分としては満足している。
集中力に関しては、自分でもある方だと思っている。その証拠にプロジェクトメンバー選出の理由をリーダーに尋ねたところ、
「君のその集中力とやる気を私は買ったんだよ」
という返事が返ってきた。まさしく総司にとっては望むところである。
――長所と短所は紙一重――
という言葉がある。
そういえば、総司の比較対象の中にも長所短所というのがあった。あまり頻繁に考えることではないが、長所も短所もそれぞれ単独で考えたことがない。それは紙一重という考えが頭にあったからだろう。
そしてそれが比較対象すべてに言えるのではないかと考えるようにもなっていた。
――すべてのものが紙一重――
隣同士にあっても気付かないことだってある。特にそれが対照的なものであれば特にそうで、長所と短所など、なかなか気付くものではないだろう。
――次元が違うもの――
最初にそう感じてしまえば、どうしようもない。
四次元の世界というものをよく想像していた。時間を超越して、どこかに存在しているというイメージなのだが、本などを見ていると、どうやら同じ空間に存在しているものだと解釈している学者もいるようだ。
その意見には、全面的ではないが、総司も賛成だった。同じ空間であっても、時空というものが違うという考えだ。時間的な遠さがあって、それが目に見えないために、距離的には至極近くにいても、見ることができない。そんな世界ではないだろうか。もちろん、存在すればの話で、あくまでも想像の域を出ない。
藍子と結婚を考えたのは、そんな感性を彼女に感じたからだ。直接異次元についての話をしたこともあったように記憶している。結婚というものにそれほど深い気持ちのなかった総司は、話が合う相手を結婚相手として見たのだろう。それだけにまわりから責められると、決意などを聞かれると、答えようがなくなってしまっていた。今は後悔もしていない。
今回の旅では、何か出会いを予感させるものがあった。女性との出会いを切望しているわけではない。ただ出会いと旅行とは、切っても切り離せないものがあるように思う。期待している気持ちが旅行先での本当の気持ち、普段の自分とは違うものがある。
普段は、どこか自分を作っているところがあるのを、ウスウス感じていた。作らなければ人と付き合っていけないところがあることを自覚し、情けないと思っていた。仕事をするというのはそういうことだと割り切っていたのだ。
だが、旅に出る時は、そんな自分を払拭できる。
――旅の恥は掻き捨て――
作品名:短編集85(過去作品) 作家名:森本晃次