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短編集85(過去作品)

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 脱衣場の向こうにあるだろう露天風呂から水の音が聞こえる。いかにも暖かさを誘う音のだが、風もないのに少し不思議な感覚もする。それだけまわりの音が何もないからだろうと思っているが、それにしては耳鳴りもしない。音がまったくないところでは、まるで真空状態のように音が篭って聞こえたり、耳鳴りがするものだと思っていた総司には意外に感じられた。
「ではごゆっくりどうぞ」
 脱衣場まで案内してくれた女性は、そのまま踵を返して、今来た道を帰っていき、総司が後ろを振り向いた時には、あっという間に闇の中に消えていた。帰りには迎えに来てくれるということだが、大体の時間で分かるのだろうか?
 温泉にはスポットライトが浴びせられ、そこだけまるで真昼のようである。お湯を手前に寄せる時に聞こえる水の音が一番好きである。催眠術に掛かったかのように睡魔が襲ってくる。気持ちよく浸かっていたが、いつのまにか睡魔のために夢心地だったのだろう、先ほどの仲居さんが身体を揺らして起こしてくれた。
「お客さん、大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だよ。気持ちよくて気がつけば眠っていたようだ。どれくらいの時間が経っているのかな?」
「私がここに来たのは、ちょうど三十分してからです。ここのお湯は三十分くらい浸かっているのが一番いいとされているんですよ。あまり浸かりすぎないように、ちょうど三十分で私が来るようにしています」
 その宿でのことは露天風呂まで向う時の暗い森の中で見たどこにいるか分からない感覚と、眠ってしまった時に起こされた女性の顔をハッキリと覚えていない。ただ、現象だけを覚えているので感覚で、情景が浮かぶだけだ。真っ暗な森の中に入ってから温泉までのわずかな時間、そして温泉に浸かっていた間、三十分という眠ってしまった時間、それぞれが自分の中であやふやなため、思い出せないような気がして仕方がない。
 その時に見た仲居さん、一度も後ろ姿を見ていない。露天風呂につれてきてくれた帰りに後姿を確認できなかったばかりか、つれてきてくれる時も、帰り道でも、後ろ姿を見せなかった。
 その時も何か変だと思っていたが、何が変なのか分からなかった。
――ああ、そうだったんだ――
 と感じたのはあれからかなり経った今日である。
 しかし、それも偶然ではない。あれから温泉には何度か行ったことがあるが、同じような気持ちになったことはない。あの時が最高で、もうあれ以上に素敵な温泉にめぐり合えないと思っていたからだ。無意識のうちに百点からの減点方式を頭の中で考えていたようだ。
 温泉から帰ってきてからというもの、一緒に行った友達の態度が少し変わった。話をしなくなったのもあるが、あの日の話はタブーになった。温泉旅館の話はもちろんのこと、あれだけ綺麗だと絶賛していた星空についても、語ろうとはしない。
――まるであの日がなかったかのようだ――
 というよりも、あの日をなかったことにしたいのではないかという、意図的なものを感じるのだ。
 温泉宿から帰ってきて、あの日の顔色の悪さがウソのようによくなっていた。しかし、なぜだろう、今でもあの時の蒼白になった顔色を忘れることができない。見ていてまるで自分までが病気になってしまいそうな表情は、さすがに衝撃的だったのだ。
 あれから総司はしばらく温泉に行こうとは思わなかった。一つは一緒に行った友達の豹変ぶりから感じる悪い予感であるが、もう一つは逆に、頭の中にあるあの日の露天風呂と、連れて行ってくれた仲居さんのイメージを壊したくないと考えるからだろう。
 それが今回に限って行ってみたいと思ったのは、友達が最近変なことを言い出したからだ。
「俺は何となく、同じ日を繰り返している気がしているんだ。確かに前の日と違う日ではあるんだが、日にちが変わる瞬間に、前の日に戻ったような感じがするんだ。錯覚なんだと思うけど、日にちが変わる瞬間に考えたことが、二十四時間前ではなく、つい今だったように思えてくると、気持ちの中で同じ日を繰り返しているって気分になったんだよ」
 支離滅裂に聞こえるが、奇抜な発想を話しているんだから、支離滅裂になって当然である。理解しがたいが、感覚で聞いていると、どこか自分にも同じ感覚があることを思い出した。
 今回の旅行で感じた車窓からの風景を思い出していた。前にも見たことがあるように思えていたが、それが現実味を帯びたのは、友達の話を思い出していたからだ。総司にも同じような思いをしたことがある。
――あれはいつだったんだろう?
 と考えてみた時、ほとんどがあいまいな記憶でしかない。特に夢で見たと思うような記憶であれば、それがまだ幼稚園の頃に考えたことなのか、それとも大人になって感じたことなのか分からない。それこそ昨日だったのか、数年前だったかと言われるとハッキリしない。
 車窓からの光景を言葉にして囁いていた。本を読むのが好きな総司も、中学を卒業する頃までは、活字が苦手だった。今から思えばセリフだけを繋げて読んでいたように思う。セリフのない本は苦手で、最初から読まなかった。だからミステリーやサスペンスのようなテンポのいい作品しか読めなかったに違いない。
 だがサスペンスにしてもミステリーにしても、情景をうまく描いた作品であれば、少々セリフが少なくとも苦にならずに読むことができる。そんな作家を探して読み漁った時期もあった。
 そんな中に友達が話していたような「同じ日を繰り返している小説」を読んだことがある。ミステリーでもホラーでもない、平凡なサラリーマンがある日突然訪れた奇妙な世界への入り口のお話であった。
 そんな作品ほど決まってセリフは少ない。却ってあまりセリフが多いとしらけてしまうところがありそうで、読者も分かって読んでいるに違いない。しかし、会話の中にある歯切れのよさが作品をさらに神秘的にしているのも否めない。「同じ日を繰り返している小説」、どこかで現実の世界との接点が見えてくるような気がして読んでいたのは総司だけだったのだろうか?
「小説というのは、ほとんど読み手によって感じ方が違うものです。もし、皆同じように感じる小説があれば、ある意味すごいことだと思いますよ。まるで催眠術に掛かったかのように小説世界に引きずり込まれるのを想像するだけで、ゾクゾクしてくる。そんな作品を書きたいものですね」
 そんな話をある小説家がテレビで話していた。
 総司はいつも部屋でテレビをつけている。だが、ほとんどがついているだけということが多い。以前はステレオをかけていたが、音楽も聴き飽きた。ラジオもいいのだが、何かをしながらであるならば、気が散らない程度のテレビが一番いい。いつもはバラエティかスポーツ番組が多いが、気がつくと終わっていて、違う番組に変わってしまうことも往々にしてある。
 よほど嫌な番組でもない限り、チャンネルを変えることはない。嫌いな番組は何かと聞かれると、その時々の精神状態で違ったりするが、そんな時にやっていたのが作家とアナウンサーのトーク番組だった。その時はトーク番組も嫌と感じなかったのだろう。しかし偶然であることに違いない。
作品名:短編集85(過去作品) 作家名:森本晃次