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家族と性格

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 思春期あたりになると、引きこもりが多くなるというが、思春期になって突入する引きこもりの中には、初恋だったり、女の子とどう接すればいいか分からずパニックになってしまったことで取り返しのつかないことをしてしまいそうになったり、実際にしてしまったことで引き起こされた自己嫌悪が原因だったりするのではないだろうか。
 恭一は、その可能性はかなり高い位置にあると思っている。そして一番陥りやすいタイプは自分のようなタイプではないかと思っていた。ただ自分が本当にどういうタイプなのかということは漠然としてしか分からず、本当に理解できているのか、疑問に感じるほどだった。
 恭一が自分のことをどうしても卑下してしまうことが多くなったのは、父親に、
「早く帰ってこい」
 と言われたあの時であることは紛れもない事実だろう。
 あの頃の父は確かに少し乗除不安定だったような気もするが、それだけで説明できるものでもない。きっとあれは本心からであり、あれが父の本性だったのだろう。
 あれは父親の中で、自分の正当性を必死に訴え、それを完全に息子に押し付けていたのだ。ひょっとすると、父親も自分に本当の自信を持っていないのかも知れない。一縷の望みとしての自分の正当性を息子に押し付けることで、自分の正当性をかろうじて保ち、その正当性を息子が証明してくれると考えているのだとすれば、気持ちは分からなくもないが、度台無理な話である。
 そもそも息子は父親とは性格も趣味趣向も違うと思っている。そんなことをすれば反抗心しか生まれないのがどうして分からないのだろう。
 しかし、それでも父親の言うことに逆らうことができない息子なので、そのジレンマが自己嫌悪を引き起こし、そのまま罪悪感となって、屈辱に繋がってしまう。
――大人のくせにそんなことも分からないのか――
 とも思ったが、それ以上に、
――そんな大人になるのでれば、俺は大人になんかなりたくない――
 と思った。
 そもそも、子供と大人の違いはなんだろいうのだろう?
 思春期という、子供が大人になるためのまるで昆虫でいえばさなぎのような時間を過ごさなければならないのは、そんな大人になるためなのであろうか? 人それぞれに思春期に対しての考え方も過ごし方も違うだろうが、この期間が大人への階段であることは周知のことだと思っている。
 そういえば、
「末は博士か大臣か」
 と言う言葉から、
「十で神童、十五で才子、二十歳過ぎればただの人」
 という言葉に繋がることわざのようなものを聞いたことがある。
 つまり大人になるにつれて、平凡になっていくという例もないわけではないが、やはりこれはごくまれな例と言っていいだろう。
 父親もきっと自分と同じように、少年の頃には少年らしく、大人になれば大人らしく成長したのだろうが、どうして成長して大人になってしまうと、子供の気持ちが分からなくなるのか、実に疑問だった。
――いや、分からなくなったわけではなく、分かっていて、わざとしているのではないか?
 という思いが頭をもたげた。
 今回の屈辱があったことで、恭一にはあの時のことがトラウマとして残り、無意識にこのように考えているのではないだろうか。
「俺は子供が生まれたら、俺のような屈辱感を味合わせるようなことはしない。だから、もし同じようなことが息子に起こったら、二つ返事で宿泊を許すだろう。決して一人だけ帰ってこいなどというようなことはしない」
 考えるだけではなく、心に深く刻んで誓いとして残っていくはずである。
 そう思うと、あそこまで父が確執し、こだわったというのは、似たような経験を子供の頃にしたのかも知れない。その時に何かがあって、その時の父も、
「今のような俺の思いを自分の息子にさせたくない」
 という思いがあったのではないかと思えば、理屈としては理解できないこともないだろう。
 だが、この考えはあまりにも父尾谷たいして都合のいい考えであるのだが、
「逆に言えば、相手が父親だから。このような相手に都合のいいかんがえができるのではないだろうか」
 と言えるような気がする。
 だが、どんなに父親の考えを勝手に想像したとしても、恭一自身は絶対に容認できるわけではない。むしろ気持ちを理解できたとすれば、それは余計な憎しみを生む結果になるかも知れないということである。
 あれだけ毛嫌いしていて、自分と性格も趣味趣向も合わない父親だと思っている自分の気持ちに一点の曇りをもたらし、必要以上の迷いを生むからである。
 この迷いはまったく無駄なことであり、父親という直接的に関係のある人間に対して、余計な壁は必要ないということである。
 つまりはお互いにわだかまりをなくして正面から向き合うのが親子なのだとすれば、今の二人は親子関係をキープすることはかなり難しくなっていると言えるのではないだろうか。
――わだかまりを捨てるなどできるはずなどない――
 と恭一は思っていたが、同じ感覚を父親も持っているのではないかと思っているのだが、それもまんざら間違っていないような気がしてきた。
 その感情が親子ならではだというのであれば、否定したい気持ちになるのだが、それほど父親と自分とはまったく違う人種だと思っていた。
 そういう意味で、わだかまりを捨てることはできないと思うのだが、それとは別に、
「わだかまりを捨ててはいけない」
 という訴えが自分の気持ちの中から聞こえてくるのだ。
 お互いにわだかまりを持っているから、同じ家で暮らせるのだ。わだかまりを捨ててしまうと、一日たりとも一緒にいることをお互いに我慢できないのではないかと思うほどだった。
「同じ空間に存在していることすら我慢できない」
 などと言っている人の話を聞いたことがあるが、以前であれば、
「そんな感情に陥るのは、精神に異常をきたしているからだ」
 と思っていたが、今はどうだろう?
 確かに精神に異常をきたしているのかも知れないが。そうであれば、今の自分も同じような精神状態にいるのかも知れない。
「自分だけは精神異常などではない」
 と思っていたとすれば、それは相当な傲慢である。
 自分だけが他の人と違うという意識を持っているとすれば、それは自分の中にある精神状態のことであり、生まれついてのものであったり、本性のようなものは、自分ではどうにもならない。それを自分だけと考えるのは、傲慢だとして見るのは仕方のないことだと思っている。
 我慢というのは、一人でできるものと、一人ではできないものがある。一人ではできないものは、逆に言えば。何人いたとしても我慢ができるものではないだろう。つまりは我慢ができないということだ。一人でできる我慢と一人ではできない我慢、それは言い換えればできる我慢とできない我慢と言えるのだ。
 できない我慢をしようとすると、そこには必ず限界があり、その限界に近付けば、そこが限界だということを知ることになるだろう。
作品名:家族と性格 作家名:森本晃次