家族と性格
という程度のことだったが、そんなことを息子から言われたことが癇に障ったのか、急に怒り出した。
「何言ってやがるんだ。誰のおかげで生活できていると思っているんだ」
これは、酔っ払いにすればベタなセリフであるが、これほど恭一にカチンとこさせるセリフはなかった。
「酔っ払いが何をまともなこと言ってるんだ。顔洗って出直してこい」
息子も負けていない。
こうなると売り言葉に買い言葉、悪口の応酬だった。道子さんはどうしようもないと思い、布団に入り込んだ。自分が出て行ってもどうしようもない。却って火に油を注ぐと思った。
その時の父親の吐いたセリフ、
「お前、咲江が好きなんだろう?」
この言葉に恭一は半分キレていた。
「うるさいな。どうでもいいだろう」
というと、
「フン、あの娘は俺とな……」
と言いかけてやめた。
その話は道子さんには聞こえていないはずだ。
恭一は、それ以上言わせないように口をつぐんだが、父親はそれ以上は何も言えないほど一気に疲れが回ったのか、そのままぐったりとなってしまった。
――そういえば、咲江は様子がおかしかったな――
確かに咲江を好きではあるが、結局何もできなかった自分を悔しく思っていた。
それなのに、この愚男は何をしたというのだ。咲江の様子を見る限りでは最悪の結果にはなっていないはずだと思ってはいるが、
「こんな酔っ払いのいうことを本気で聞いていいものか」
という思いと、
「酔っぱらっているだけに本心が出る」
という思いが相まって、結局結論は想像がつかないままだった。
小心者というのがどういうものであるか、一番分かっているのは、小心者であるその本人である。しかし、それは分かっているつもりでいるだけかも知れない。内容はその人によって違い、小心者ほど、
「他の小心者は、自分のことが分かっていない」
と思い込んでいるものだ。
これは矛盾していることであるが、その矛盾は意外と小心者の真理をついているのではないだろうか。
そのため、ついつい去勢を張りたくなる。それが酒の酔いによって増幅されることになったとしても、それは仕方のないことなのかも知れない。だから、恭一が父親と同じ立場であれば、自分も口走っていたかも知れないと思うと、空恐ろしい気がした。
恭一は父親のその告白を聞いた時は、
――しょせん、小心者の戯言だ――
という気持ちであまり意識をしていなかった。
しかし、それが同じ小心者として、分かる部分を感じると、だんだんとこの家にいるのが息苦しくなってきた。
――とにかくどこかに避難したい――
という気持ちである。
思い浮かんだその場所というのは、実の母親の場所しかなかった。一度、一日だけ世話になったが、今回行けば、いつまでいるか分からない。
もちろん、母親の都合もあるから、そういつまでもというわけには行かないだろう。そんなことは分かってはいるが、それでもずっとこの家にいるよりもマシだと思った。その証拠に前一度一日いただけでかなり精神的に楽になったものだったからだ。
恭一はさっそく母親の元を訪ねた。母親は相変わらず忙しくしていた。ただ、以前の時と違って、母には新たな恋人がいるということだった。
「よく来たわね」
と久しぶりに姿を見せた息子に母親は歓待の言葉を向けてくれたが、その言葉のどこかにぎこちなさを感じた。あまり人の気持ちが分かる方ではない恭一であったが、これだけ義理の親子と気を遣いながら過ごしていると、嫌でも人のことが気になってしまうもので、それでも自分が感じているよりも、ここまで気になっているなど思ってもいなかった。
「またお父さんと喧嘩でもしたの?」
と、楽天的に話すその話しぶりは、まるで他人事のようで、イラっときたが、助けを求めるつもりで来た以上、文句を言える立場ではない。
「もうちょっとややこしいんだけどね」
というと、
「お父さんはああいう性格だから、許してあげてほしいとは思うけど、お前のその顔を見ていると、そうもいかないようね」
と言って、
――なんでも分かっているわ――
と言わんばかりの母親の表情に、またしても苛立ちを感じた。
それはさっき感じた他人事に見えることに対しての苛立ちとは違っていた。今度の苛立ちは、まったく逆で、母親が自分以上に、恭一のことを分かっていることに苛立ったのだ。
では、その苛立ちは誰に対してのものなのか? 母親に対してのものなのか、そうやすやすと見抜かれた自分自身に対してなのか分からなかった。ただ、
――お母さんには適わない――
という気持ちにもさせられ、さっきの苛立ちが、次第に安心感に変わってくるのも分かった気がした。
母親は何でも分かっているような言い方をしたが、その実、恭一には甘かった。その日の夕食は豪勢で、かなり無理をしているのではないかと思ったが、ひょっとするとこれも恋人のなせる業なのではないかと思うと、複雑な気分になってきた。
母親に恋人がいるというのは、母親本人が話してくれた。ひょっとして、今ではもう何も関係ないはずの息子にこの結婚を許してほしいという、意味不明な理屈を母親は持っているのかも知れない。だからこそ、いの一番に恭一に話したのではないだろうか。
しかし、そんなすぐに答えが出るわけではない。悪戯に息子の気持ちを刺激するだけで許しどころではないかも知れない。
そんなことは母親ならきっと分かっているだろう。許しを得ようなどというおこがましいことを考えているわけではなく、ただ事実として知ってほしい内容を、自分の口から言いたかっただけのことなのかも知れない。それが息子を混乱させることになったとしても、それが息子の成長のために必要なことだと感じたのだとすれば、恭一は母親の気持ちを無碍にする気持ちがなかった。
家には、
「しばらく帰らない」
と書いてきた。
父親は心配などしないだろうが、義母と咲江はきっと心配しているだろう。家での原因が自分たちにあるのではないかと、それぞれに思っているに違いない。恭一はもし義母が迎えにくれば帰ってもいいと思っていた。だが、あの人にそんなことができるはずはない。実の母親と実の息子、この関係を無理やり引き裂かれた経験を持っているからである。それを分かったうえで、恭一は母親のところにやってきた。これはある意味、
「絶対に侵すことのできない結界を超えてきている」
と言ってもいいだろう。
これはある意味、道子さんに対しての、
「挑戦状」
のようなものだった。
「果たし状」
と言ってもいいかも知れない。
一対一という関係であれば、果たし状と言えるのだろうが、純粋な一対一ではないと思えるのでやはり挑戦状になるのであろう。この短い文章には義母や父親、ひいては咲江に対してと、全員にあてたものだったからだ。
――迎えに来るとすれば誰だろう?
恭一はそんなことを考えていた。
果たして迎えに来たのは一番ありえないと思っていた咲江だった。
「お兄ちゃん」
そう言って、目には涙が浮かんでいた。