家族と性格
だが、次の瞬間、目がトロンとして、うっとりした様子で恭一を見上げる。それは恭一を慕っているように思えたが、今までに感じた慕われているという感情の最上級に値するものであった。
――この子のこの態度は一体何を意味しているんだ?
と、この数秒間(と思えるほどの短い時間)に、一体どれだけの感情が生まれて消えて行ったのかを思うと、これまた不可思議な感情が生まれてきた。
相手を小学生の女の子として意識できないものだと思うようになった。もしこれが道子さんであれば、まだ分かる気がするくらいであったが、道子さんは大人である。道子さんを想像した時点で、さっきまでの態度がやはり子供だったということを立証しているようで、今ここで道子さんを想像するのは、何かが違うと思わせた。
だが、やはり親子、想像するだけのこともあるようで、咲江を見ていると道子さんを思っている自分も一緒に出てくるような気がして、
――俺は何か少し気が変にでもなったのだろうか?
と感じていた。
決して気が変になどなっているわけではないが、いきなりのいろいろな攻撃に自分の気持ちが追いついてきていないだけではないだろうか。
家族とは
咲江の攻撃にビックリはしたが、その後我に返った咲江は、自分が今したことを急に後悔しているようだった。しかし、それは恭一に対してしている後悔ではなく、自分がしてしまったことを悔いているのだ。
はしたないことをしてしまったと思っているのか、それとも、慕っている兄に知られてしまった自分の性質について悔いているのか。しかし、自分の性格や性質をどうにも変えることができないと分かっているのだとすれば、そのことを悔いるというのは矛盾しているような気がする。
少なくとも、してしまったことで恭一に対して、
「悪いことをした」
という意識はないようだ。
それは、キスをするということが悪いことだとは思っていないからではないだろうか。
キスというものに対してどこまでの感覚を持っているのか分からないが、恭一の方は確かにいきなりでの初キッスだったこともあって、大いに慌てたが、冷静になってみれば、そんなに大したことではないようにも思えてきた。
恭一は、このことを誰にも話すまいと思った。人に話すようなことではないという思いが強かったからだ。つまりは、話さないのは咲江や自分のためではない。誰かのために話さないというわけではない。話す必要がないことをいちいち話すことはないというだけのことだった。
ただ、なぜ咲江が自分にキスをしたのか、それが分からないと、どんどん気になってくる。
「私、お兄ちゃんのことが好きなの」
という言葉が続くのを待っていたというのが本心で、その言葉が聞けなかったのは、そのキスが衝動からの行動で、我に返ったことでどうしていいか分からなくなったという動揺から、そこで気持ちが切れてしまったとも考えられる。それは恭一にとって、何とも消化不良な思いしかしてこなかった。
そんなことがあってから、その年の夏休み、家族で旅行という話が持ち上がった。恭一の初キッスから二か月くらい後のことだったが、それからの咲江は何事もなかったかのように恭一に今まで通り甘えてきていた。
「お兄ちゃん、勉強教えて」
と言ってくるので、咲江の部屋に入るのは日常茶飯事になっていた。最初の日と違って二回目からはまったく意識することなく入れた。そもそも女の子の部屋という雰囲気でもないので、気軽に入れたのだ。
「お兄ちゃんが入りやすいように、あんまり派手にしていないのよ」
と咲江は言ったが。もしそうだとすれば、
「そんな、俺なんかのために気を遣わなくてもいいよ」
と口では言ったが、咲江の気持ちはありがたかった。
どうやら咲江には、恭一が感じている女性恐怖症が分かっているのかも知れない。
「女性恐怖症」
その感覚は、恭一自身にも最近までなかった。
恐怖症と言っても、形に現れる自分への迫害のようなものを怖がっているわけではないまわりの女性が恭一に無言の圧を掛けてくるわけでもないのに恐怖症だというのは、恭一側に問題のあることだった。
ただ、本人は恐怖症だと思っていないのだが、まわりが恐怖症だと認めてしまう。それは恭一の行動がまるで発作的に女性を避けてしまうことがあるからだった。
別に女性を特に嫌いだというわけではない。性質的に受け入れられないなどということもない。昔苛められてそれがトラウマになったというわけでもない。自分でも分からないところで、反射的に身体が避ける行動を取ってしまうのだ。
それを見てまわりは、
「あいつ、女性恐怖症なんじゃないか?」
とウワサされるようになり、その頃はまだ異性への興味もなかったので、そのウワサに便乗する形になっていた。
わざわざ否定するのが面倒だったというだけだが、今度は思春期に突入し、本当に異性が気になり始めると、まわりが意識している自分に対しての、女性恐怖症というイメージをどうすればいいのか分からなくなった。
このまま、女性恐怖症で押し切ればいいのか、では、本当に好きになった女性が現れればその時はどういう態度を取ればいいのか、それもまわりに対してと、その女性に対して、さらには自分に対しても考えられる。
咲江は何とか、恭一の興味を引こうとしていた。しかし恭一はそれほど咲江に興味を示そうとしなかった。それがどうしてだか最初は分からなかった咲江に、一つの考えが浮かんできた。
――まさか、お兄ちゃんは、お母さんの方に興味を持ったのでは?
と勘ぐってしまったのだ。
だが、その予感の半分は当たっていたことで、咲江はさらに分からなくなってしまった。恭一は確かに女性恐怖症にはなっていたが、それは咲江などの考えている恐怖症とは違っていて、恐怖症というよりも、女性からの誘惑に対して、避けているだけのものだった。女性からすれば完全に避けられていると誤解するのも無理もないことだが、それを恐怖症だと解釈してしまうのも、実は性急すぎるのだった。
咲江は事あるごとに母親を監視し始めた。それはあくまでも恭一との接触という意味だけのことで、それ以外のことにはあまり興味を示さなかった。道子さんもまさか咲江が自分と義理の息子である恭一の仲を疑っているなど思いもしなかった。ただ、道子さんが恭一を男性として意識していることも半分は当たっている。咲江という女の子は、人が考えていることの半分に対して思い込み、余計な発想から、妄想を果てしなくしてしまう癖のようなものがあった。
そのことを母親の咲江も知らなかったのだから、他の誰が知ることができるであろうか?
唯一知っている人がいたとすれば、それは亡くなった父親だった。亡くなった父親は家族に対しての勘は結構鋭く、道子さんに対しても、咲江に対しても思っていたことはほぼ当たっていたようだ。