家族と性格
「ええ、。中学受験を志すには少し遅かったのかも知れないわね。でも、歴史以外の勉強もやってみれば結構楽しいものよ。だから続けているの」
と咲江は答えた。
「一生懸命に勉強しているんだね」
「ありがとう。でも、楽しいことをしているんだから、これでいいのよね」
と言って、ニンマリとした。
その表情には少し淫靡な雰囲気があったが、それを恭一は見逃していたのかも知れない。
――こんな一生懸命な妹が隣にいるのに、盗聴などしようと考えた俺は、何と愚かな兄なんだ――
と、いう罪悪感を抱き、自己嫌悪に陥りそうになった
しかし、それを止めたのも咲江だった。
「だからね。お兄ちゃん」
と言って、咲江は恭一にいきなり抱きついてきた。
「私、楽しいことをするのは悪いことじゃないと思っているの。自分の楽しいことで悪くないと思うことは何でもしたいと思うようになったの」
と言って、彼女の唇が恭一の唇を塞いだ。
「ムググ……」
何かを言おうとしているが、恭一は声が出せない。
咲江はともかく、恭一にとってはファーストキスだった。クラスに気になる女の子がいないといえばウソになるが、その女の子は皆から好感を持たれていて、いわゆる、
「高根の花」
だったのだ。
手が届きそうもない高根の花に、さらにまわりにはライバルだらけ、早々に競争から離脱した恭一は、人と争うことが嫌いな平和主義者ではなかった。どちらかというと、どんどん勝ち進んでいっても、最終的に負けてしまっては、そのショックが計り知れないということを考えると、最初から諦めた方がいいと思うのだった。
そのため、学校では恋愛対象になる人はいなかった。理想が高いというわけではなく、一度クラス内での恋愛感情を持ち、その競争を拒否するという気持ちを抱いたことで、もうクラス内での恋愛はしないと思ったからだ。
もし、競争を拒否することがなければ、ひょっとすると好きになる子もいたかも知れない。それは分からないが、恭一の中でそのことに対しての後悔はなかった。
――諦めがいいというのはちょっと違う気がするかな?
と自分で思っていたが、それを解消してくれたのが、咲江の存在だった。
咲江は義妹だが、血のつながりがあるわけではない。したがって彼女の方でも恭一を男性として見てくれているのであれば、それは自由恋愛の範疇だと思っている。
恭一は、そういう意味で自自由奔放な性格だった。そこがあの父親との一番の違いであり、
「自由であるからこそ、他人を縛ってはいけない」
と思うようになった。
だから逆に、
「縛るのではないから、相手が遠慮してこなければ、こっちも遠慮しない」
というのが基本的な考え方だ。
それがコミュニケーションを作るのであって、他人を縛ったり、そのために人に遠慮したりする姿勢は、苛立ちの対象となるのだった。
咲江は今、恭一に兄としてではなく、オトコとして興味を持っているようだ。大人の男性として見ているその目は、時々感じていた淫靡なイメージそのものだった。
そんな淫靡な雰囲気を感じた時、
―ーそんなバカな――
と自分の中で否定していたのだが、それは余計なことであった。
陰部な雰囲気を否定することで、本当はそれ以降も同じ雰囲気を保っていたかも知れない相手をわざと見ないようにしたことで、咲江への気持ちを打ち消し、彼女の意志を通さないようにしていたのかも知れない。
――それって、俺らしくないよな――
相手に対し忖度し、勝手な思い込みで相手を否定するなど、本当はあってはならないことだろう。
それをしてしまうのは、今まで自分が嫌だと思ってきた父親と同じではないか。そう思うと、自分が情けなくて、自己嫌悪というだけでは済まないのではないかと考えてしまうではないか。
咲江が唇を重ねてからどれくらいの時間が経っているだろう。その間に高速回転で頭の中で何かの考えが駆け巡ったようだ。あまりにも早くて解読できないほどだった。
まだ数秒しか経っていないと思ったが、それに間違いはないだろう。いくら鼻で呼吸ができるとはいえ、口を完全に塞いだままじっとしているのは、さすがにきついのは分かっている。
そう思うと、いつの間にか考えることをやめてしまった自分が、元の場所に戻ってきたという感覚になった。頭に集中していた感覚が、また唇に戻ってきた。咲江の柔らかい唇を感じていると、血が逆流するのではないかと思うほどの快感があったが、本当は唇が重なった瞬間に感じるはずのものではないかと思った。
――順番が違っているよな――
と思った。
そう思った瞬間だった。咲江の唇が微妙に震えているのを感じた。
――このじっとしている感覚に辛くなったのかな?
と思ったが、それでも唇を離そうとしない咲江は、何かを考えているように思えた。
彼女の中で何かの結論が出なければ、彼女の方から決して唇を離そうとはしないのではないかという思いが恭一の中にあり、
――それなら、俺の方から離してやって、咲江を楽にさせてやろう――
とも思ったが、それも彼女に悪い気がした。
せっかく我慢しているのに、他人にタオルを投げられてしまうのは、不本意だと考えるかも知れない。
しかし、恭一は咲江の義兄なのだ。恋人でもなければ友達でもない。
そう思うと、もう一つの考えが頭をよぎった。
――ひょっとすると、咲江の中でこの俺を義兄以外の何かであると考え、それを実証するかのように、いろいろ試そうとしているのではないだろうか?
というものだ。
友達として、恋人として、そして本当の兄として、それぞれいろいろな思いがあるだろう。
その中での口づけは言わずと知れた恋人という発想である。あまりにも奇抜と言えば奇抜だが、これが咲江の考えなのであろう。ミステリーなどを読んでいると、女の子でも快活な気分になるのかも知れない。それが咲江の気持ちを後押ししたのか、それとも元々の性格が快活で、ミステリーを読むことでその本性をあらわにしたのかは分からない。だが、自分の気持ちを表すための起爆剤のようなものとなったのは確かであろう。
震えた唇が、重なった時にはカサカサに乾いていたと思っていた彼女の唇に潤いをもたらしているように思えた。
――ということは、彼女のこの震えは耐えきれないという思いではなく、緊張がほぐれて、次の段階に突入しているという意味なのだろうか――
と感じた。
だとすれば、ここでやめる手はない。この状態をキープしながら、恭一は咲江のことをもっと考えていた。
咲江はそれからゆっくりと身体の力を抜いていき、そして少ししてから、唇を離した。一瞬、顔を下に下げて、はにかむような態度を取ったかと思うと、今度はいきなり顔を上げ、恭一を凝視した。
その顔は真剣そのものだったが、何かを訴えるという感じではなく、ただ見つめているだけだった。
人から凝視される時というのは、何かを訴えてくる表情だとずっと思ってきたので、その時の咲江の表情は、恭一には違和感があった。
――何を考えているんだろう?
という思いがよぎり、口づけをしたのは自分からではないのに、何かそのことで抗議を受けているような気がするくらいだった。