短編集84(過去作品)
それから野本氏は興味を持ったのは歴史だった。これは今でも好きな学問で、時間があったら本屋に寄っては歴史の読み物を物色している。
何と言っても時間という今までに過ぎ去ってしまって、どうにもならないものであり、それでいて、時間という土台が揺るぎないものであるからこそ、今が存在するのだと思うことが歴史への最大の興味が湧くのだ。
これは一見、規則的な考えに矛盾しているように思えるが、そうではない。すべてが過去からの積み重ね、突発的なことは何もないのだ。しかし、現在という時間だけでも果てしない因果関係が渦巻いていて、それが時間というものが一本真ん中を走るだけで、さらなる世界の可能性を感じさせる。
歴史としての事実は、その中のたった一つなのである。複雑な関係や偶然、捩れるようにして存在しているのかも知れない。
――メビウスの輪のようだな――
と感じているが、まさしく次元を超えた魅力が歴史の事実にはある。
「歴史なんて、実際に自分が見たわけじゃないから、どこまで信じられるか分かったものじゃない」
現実的な考え方のやつはそう言うだろう。しかし物事を合理的に考えようとすると、どうしても過去を考えないと納得できない人もいる。それこそが今残っている「歴史としての事実」ではないだろうか。
何かの事実がない限り、今というものがない。過程があるから現在があるのだ。過程を見つめるのも大切なことだと思いのどこが悪いというのだろう。
「いや、悪いなんて言ってないよ」
あまりにも興奮していたのだろう。知らず知らずのうちに激論を戦わせることも稀ではないようだ。
そんな中で野本が興味を持ったのが、芸術の歴史だった。ルネッサンスからの歴史に興味を持つとさらに歴史をさかのぼって、芸術、文化関係の歴史を見つめるようになっていた。もちろん戦争や政治、思想などといった歴史の表舞台にも興味津々だったが、芸術の歴史に興味を持つことで、自分が芸術にゆとりを求めていることに気付いたのだ。
釣りに求めていたのもゆとりであるし、芸術にもゆとりを求めている。だが、ただゆとりというものだけを漠然と求めているようには思えない。それがどこから来るものか、今でも分かっていない。
いつものように砂時計を見つめている。仕事から帰って一人の寂しい部屋の中、ゆっくりと刻む時間が砂時計。これをゆとりの時間と思わず、何と思えというのだろう。
部屋に入ると最初に感じるのは、部屋の冷たさである。冷たい空気が足元から流れ出し、人気のないことを思い知らせようとするかのごとく、肌寒さが忍び寄る。
暗い部屋に入るとすぐには電気をつけない、砂時計の砂というのが、蛍光色になっていて、暗闇でも光るようになっているので、いつもそれを見つめている。
ピンク色の砂が眩しい。それまではピンク色は好きではなかった。今でもエメラルドグリーンの方が好きなのだが、なぜかこの砂時計には愛着がある。暗闇の中で照らされるピンクを見ていると、寒くて暗い部屋であるにもかかわらず、暖かさが滲み出てくるように思えてならない。
水晶玉に魅入られた女の子が友達にいた。彼女とは中学まで一緒だったが、いつも水晶玉を見つめていた。と言っても部屋で見つめているだけなので、一人でいる時、どんな風に見ているのか想像もつかない。想像を膨らませてみるのだが、想像するのが無理な理由は、普段の彼女からは想像もつかないからだろう。
彼女は名前を美咲といい、小学校から一緒だった。何度も同じクラスになり、机が隣同士ということもあった。気さくな性格で、彼女の方から何度も話しかけてきたくらいだ。
それは野本氏だけに限ってだけではない。誰に対しても態度を変えることもなく接している。それが彼女のいいところなのだが、罪がないだけに、知らないところで罪作りな自分に気付いていないのだろう。
男の中には、
――あの笑顔は僕にだけなんだ――
と感じ、惚れられていると思い込んでしまうやつもいたようだ。確かにそのような浅はかな思い込みをする方が悪いのだろうが、思い込ませるような思わせぶりな態度を取る彼女もまずい。だが、彼女の笑顔を見ていると戒める気にはならない。まるで水晶玉のようで吸い寄せられそうなまなざしには、他の人にない煌きがある。
――いつも水晶玉を見つめているからなんだ――
「水晶玉を見ているとね。何かが見えてきそうな気がするの」
と彼女は話していた。野本氏が砂時計を見るのも、その奥に何かが見えそうな気がしているからで、それが何か分からないから、さらに見つめているのだ。
時々彼女とは歴史の話で盛り上がる。歴史の中でどの時代というわけではないが、個性的な人物に憧れているという。男性と女性で見方が違うせいか、お互いに話が噛み合わない時があり、議論が白熱することで、知らず知らずに大声を上げていたりして、喫茶店などでは恥ずかしい思いをしたこともあった。しかし彼女は性格自体あけっぴろげのところがあるので、笑って済ませられるのだ。
そこが彼女の魅力である。すぐに忘れてくれるのは、打算的なところがないからで、相手によって会話の引き際を考えながら話をしている海千山千の人とは違うのだ。
野本氏は密かに美咲に思いを寄せていた。美咲が野本氏をどう思っていたか分からないが、好印象だったこと間違いない。誰にでも愛想のよい美咲だったが、ある一線からは自分を閉ざしているところがあった。少なくとも本当に好きになった相手でないと、付き合ったりしない。中途半端が嫌いなところは、歴史上の人物でも個性的な人が好きだというところに現れている。
「美咲さんが、この間中年の男性と歩いていたよ」
と、そういう情報には耳の早い男が噂していた。
「ええ? 彼女が、そんな……」
今まで持ってきた話題にはかなりの確率で信憑性があった男だけに、耳を疑うとはまさしくこのことだ。だが、そんな噂を打ち消してしまうほど、美咲には誠実さが身体全体からにじみ出ていた。
だが、ここに一人信憑性を信じる男がいる。他ならぬ野本氏だ。
美咲という女性を疑うわけではないが、彼女だからこそ、そういうこともあって不思議ではない気がする。野本氏自体、不倫という言葉に嫌悪感を感じていないし、血が通っている人間なら誰しも起こりうることで不思議はないと思っている。
――俺って冷めてるのかな?
そうも感じたが、いや、逆に人間らしいとも言えるのではないか。天邪鬼だといわれるかも知れないが、それも個性である。彼女の個性を知っている野本氏にとってみれば、彼女が他の男性と歩いていたとしてもそれは何の不思議もないことだ。
――彼女が見えてきそうな気がすると言っていた水晶玉の奥、見えたのだろうか?
野本氏も相変わらず砂時計を見つめているが何も見えてこない。きっと彼女にも何も見えてこないのではないだろうか。
見えるつもりのものが見えてこないと、焦りに変わる。
――今度こそ――
と考えていても、結局は見えてこない。
だが、それでも最近ではがっかりしなくなった。諦めの境地とでもいうのだろうか、下手をすると自分が求めているものが何かを見失ってしまいそうだ。
作品名:短編集84(過去作品) 作家名:森本晃次