短編集84(過去作品)
水晶玉と砂時計
水晶玉と砂時計
自分の意志を貫く男、考えただけでも格好いい。
「俺もそんな人間になりたいな」
と口では簡単に言えるが、言った本人が一番なかなか難しいことは分かっている。人間にはどうしても生活しているまわりとのしがらみがあるために、思い通りには行かないものだ。ちょっとでも自分の意志を押し通そうとすると、
「やつはわがままだ」
と言うやつが集団の中に一人はいるものだ。
言葉に出すやつはまだいい。しかし、黙っていて何を考えているか分からない連中がいると困ったものだ。それを思うと思い切った行動ができなくなるのも仕方のないことである。
ここに自分の意志をいつも貫いていると思っている男がいる。名前を野本重雄というのだが、いつも自分がわがままなのではないかと疑心暗鬼に悩まされながら、それなりに自分の意志を貫いている。
「俺って中途半端なんだよな」
そう呟きながら、今日も机に座って、砂時計をひっくり返している。砂時計は小学生の頃、京都に旅行に行って、その時の記念にと買ってきたものだ。砂時計を見ていると、そこから目が離せなくなるのは子供の頃からで、家に帰ると必ず最初に砂時計をひっくり返してみることにしている。
別にだから何だというわけではない。ピンク色の砂が上から下へと落ちていくのを見ていると、小さな砂時計が大きく見えたり、目の前にあるのに、だんだん遠ざかっていくように見えたりする錯覚に陥ることも珍しくなかった。表から帰ってきて疲れていても、くせになっているのかこの習慣は抜けなかった。
中学の頃だっただろうか? 野本氏はクラシックが好きだった。あまり友達と一緒に遊ぶことがなかったのは、自分が友達と趣味趣向でかなり開きがあると思っていたからに違いない。表で遊ぶよりも本を読んだり、音楽を聴いたりするのが好きだった野本氏は、小さい頃から芸術家に憧れていた。
小学生の頃は、授業でやる絵や音楽が好きではなかった。まだ漠然としてしか感じていなかったからで、芸術に親しむにはそれなりに気持ちの余裕が必要であることに気付いてもいなかった。
――やらされている――
という思いが強かった。なるほど、小学生の頃は、担任がすべての教科を教えていたので、芸術をどこまで理解しているかも疑問だった。他の生徒はそれでも何も考えずに授業を受けていたが、野本氏だけは疑問を持ったままだった。疑問の中から余裕など生まれるものではないだろう。
しかし、その中でクラシックだけは別だった。家でコーヒーを飲みながら、ケーキなどあれば最高だと思って聞いているクラシックにはゆとりが感じられる。実際にコーヒーとケーキを目の前にしながら、クラシックを聞いていたことも何度かあった。そのたびに、ゆとりが深まっていくことを感じたものだ。
「芸術に親しみたいと思うようになった時は歳を取りすぎていたよ」
と父が笑顔で話してくれた。
父は芸術などしなくとも、精神的にゆとりを持っている人だが、
「これでも若い頃は、もっと強引さ性格だったんだよ。独りよがりなところがあってね。皆から嫌われていたかも知れないね」
「今からじゃあ信じられないよ」
「そりゃそうさ、若い頃は血気盛んなくらいがちょうどいいからね」
確かに父の言うとおりだ。あまり血気盛んなところが若さの特権だということは、子供でも分かった。
母親は、野本氏に何か習い事をさせたかったらしいが、それを制していたのが父だった・
「あまり強引にしては、却って逆効果だ」
と言っていたらしい。ますますもっともで、押し付けられればさらなる反発心で、反撃していただろう。下手をすると母親が嫌いになっていたかも知れない。母の気持ちも分からないでもないが、押し付けがどれほど苦しいものかを分かっていないのだろう。
野本氏の母親は、比較的裕福な家庭に育ったお嬢様である。習い事はいろいろやらされていただろうが、生まれ持った性格からか、環境からか、それほど嫌がらずにこなしていた。あきらめの境地があったことも否めない。
それだけに自分の息子も嫌がらずにやってくれるだろうという思いがあった。自分自身がどちらかとおっとりしていて、人にやらされているという感覚が薄く、すぐにあきらめに近い感覚を持っている母親の気持ちも分からなくはない。きっと野本氏自身にも同じようなところがあるからだろう。
それは友達付き合いを考えれば分かることだ。
自分が気に入った友達なら自分のやりたいこと以外をしていてもそれほど苦にならないところがある。
野本氏にもそんなところがあった。ギャンブル好きの友達がいて、時々パチンコ屋に顔を出していたが、自分はしないのに、ただ横で見ているだけで楽しくなった時期である。
自分がおっとりとした性格だからだと思っていたので、それほど苦にならなかった。しかも大学の一年生で、時間は余るほどあった頃だったので、どうせ何もすることがないのなら、誰かと一緒にいて楽しんでいる顔を見ている方が面白いと思っていたからだ。気が短い人であれば、そんな時間は耐えられないだろう。実際に今の野本氏は、当時の自分が信じられない。どうしてそんな心境になったのか、不思議で仕方がないのだ。
友達から釣りに連れていってもらったこともあった。その時も最初は、
――じっと竿の先をいているだけで何が楽しいのだろう――
と考えていたが、実際に行ってみると、時間はあっという間だった。最初の頃こそ、意識していたせいかなかなか時間が経過しなかったが、しばらくして時間の感覚が薄れてくると、今度は知らず知らずのうちに竿の先に神経が集中していることに気付いていた。
「釣りって短気な人ほど似合うらしいぞ」
と一緒に行った友達が話していた。
「確かにそうかも知れないな」
普段から自分が短気だと思っている野本氏である。その言葉を素直に受け止めた。
特に夜釣りが好きな野本氏は、海面に揺れるネオンに釣り糸が微妙に煌いているのを眺めていると、そこから目が離せなくなってしまった。小さい頃に防波堤で寄せては消える波をじっと見ていたことがあったのを思い出した。
――規則的な動きが気になるのだ――
それが短気な証拠なのだと思う。しかし、短気だからといって、人に当り散らすようなことはしない。ただ、動作のとろい人を見ると歯軋りしてしまう自分がいる。
規則的なことが好きなのは、算数が好きだったことで納得できる。数字というものこそ規則性の典型ではないだろうか。数字の持つ魔力、それに魅入られたいたと言ってもいい。小学生の頃、他の教科はすべてが嫌いだったが、算数だけは好きだった。それが今の性格に影響していると言っても過言ではない。
しかし、あまりにも規則的なのもある意味飽きが来るものだ。数学博士にでもなろうというほどになればまた違うのだろうが、勉強すればするほど、規則性を発見した学者の多いことにビックリさせられる。今さら自分が勉強しても並大抵のことでは満足のいく結果が得られるとは到底考えられない。算数から数学、決まった公式を元に解を導き出すという数学に見切りをつけていた。
作品名:短編集84(過去作品) 作家名:森本晃次