短編集84(過去作品)
休暇を願い出る時に、不覚にも思いつめたような表情になったことを思い出すと、恥ずかしかった。自分ではそんなつもりはなかったのに、上司が自分の顔を見て面食らっているいたので、分かったのだ。
九州を選んだのはなるべく遠くに行きたかったのと、中学時代修学旅行で行くはずだったのだが体調を崩して行けなくなったことが今もなお心の奥に残っているからだ。
子供の頃からあまり身体が丈夫でないことを気にしていた。喘息気味だったため、旅行に行っても身体を気にしていなければならない自分が悔しかった。療養という目的で、一時期伊豆に移り住んだこともあったが、それも一年ほどだった。今から思えば一年などあっという間だったが、あの時は、
――果てしなくこの時間が続くのではないだろうか――
と思ったものだ。
伊豆での生活は一年を通じて寂しいものだった。学校に行けるわけでもなく、療養所というところで過ごすのだ。自分は比較的軽い方だったので、それほどでもないが、まわりには重い症状の人もいて、見ているだけで本当に病気になりそうだった。
散歩は自由だった。といっても中学生の行動範囲、それほど遠くまで行こうとも思わない。近くの漁村あたりまで歩いていっては、いつも変わらぬ光景を見て帰るだけだった。
防波堤から見る夕日はさすがに綺麗で、いつまで見ていてもいいとまで思えるほどだ。今でも夕日に対しては特別な印象を持っていて、時々無性に夕日を見たくなる。だが、あの時見ていた夕日のような美しさに出会ったことはなく、
――本当に今でもあそこは変わらぬ夕日を見せてくれる場所なのだろうか――
という疑念に苛まれる。
月日が経てば当然見るものも変わるだろう。前見ていた位置自体、今もあるかどうか分からない。漁村だってまだあるのだろうか?
時々頭痛を起こしていためぐみだったが、夕日を思い出すことでピタリと止まった。今は思い出すことも困難な夕日、夢の中でだけ見ているような気がする。だから、もう一度行ってみようとは思わないのだ。
夕日を見ている時に出会った男の子がいた。出会ったというのは語弊があるかも知れない。なぜなら彼は一言も話しかけてこないからだ。
彼はどこから来るのか、いつもめぐみが来るのと同時くらいに現れる。めぐみはいつも時間を決めてきているわけではない。どこかで見ていて現れるのであればそれも分かるが、決して話しかけてくるわけでもない人が、わざわざいつ来るか分からない人を待っているだろうか。
彼は無表情だった。めぐみの顔を見るわけでもなく、じっと同じように夕日を見ている。めぐみも彼を気にしながら決して顔を見ようとせず夕日を見つめている。相手はめぐみが気にならないのだろうか?
出会ったのは数度だったが、いつも一緒にいたような気がする。もちろん錯覚に違いないが、夢には出てきた。いつも見る夕日のシーンで、ひょっとして実際にはそんな男の子はおらず、勝手に夢の中で自分が作り上げた架空の人物ではないかと思うくらいだ。
起きてからしばらくは彼の顔を覚えている。ボンヤリとしている時間帯だけだが、バタバタし始めると、忘れてしまう。夢と現実の狭間で忘れたくないという意識が働いたからだとめぐみは思っていた。
――あれが初恋だったのかも知れないわ――
めぐみは一目惚れということをしたことがない。
「一目惚れってあるのよ。ピーンと来るっていうのかしら? きっと誰にだってあることで気付いていないだけなのよ」
恋愛について語るのが好きな同じ職場の女の子が皆に話していた。例の給湯室で、まわりに男性も女性も数人いた時だった。
皆いろいろな意見があるようで激論が交わされていたが、めぐみは聞いているだけだった。そして覚えているのがそのセリフだけだったのだ。
――そんなことないわ、私に一目惚れなんて……
と心の中で呟きながら……。
その時は、中学時代に療養していたことが頭に浮かんでこなかった。忘れていたわけではないが、皆の会話の中でイメージする中には、浮かんでこなかったのだ。
しかし、一目惚れが本当になかったかということを真剣に自分に問いかけてみたことがなかった。
――自分には一目惚れなんて似合わない――
という気持ちがあるから、敢えて考えようとしなかっただけなのかも知れない。めぐみも一人の女の子であり、オンナなのだ。恋愛に憧れる時期もだったはずだし、実際に恋愛も経験してきた。その一つ一つを思い起こすことをあまりしたくないだけだ。
だからといって嫌な思い出ばかりというわけではない。
確かに嫌な思い出の方が多い。
「君は恋愛には向かないよ。冷静すぎるんだ。冷めているんじゃないか?」
と罵倒されて離れていった男性もいたが、なぜかそれほど腹も立たなかった。それを見て相手の男も、
「ほら、やっぱり君はいつでも冷静でいたいんだ。可愛くないんだろうな」
そこまで言う男もひどいのだろうが、言わせているのは自分だと思うと、悔しさはこみ上げてくる。だが、決して表情には出さない。それだけ気が強く、強情なのだろう。
男というものを動物のように考え、時には甘えて、時には冷静に接してきた。それは相手を観察してやろうという気持ちが根底にあったからかも知れない。相手のあることは自分だけで考えていても埒が開かない。しっかりと分析しないと後で困るのは自分だ。
恋愛に溺れて傷ついた人を今までに何人も見てきた。実際に付き合っていた男性の中には女性と付き合ってきた数を自慢する人もいた。相手が愚かな人物であることに気付かなかった自分が悪いと思ってきたが、そういう男も分析してみるとなかなか面白い。
――最後はこっちが捨ててやる――
というくらいの気概があってちょうどいいくらいの男だ。女性の中には服従することを喜びとする人もいるようだが、男にも女を服従させることにしか喜びを感じない男がいるのだとつくづく感じさせられた。
そんな時に思い出すのが漁村で出会った男の子だ。
あの子もまったくの無表情で何を考えているか分からないところがあり、目を見ていると底なしの谷に吸い込まれそうで怖かった。
男を意識したのはいつが最初かと聞かれれば、あの男の子が最初だったかも知れない。恋愛感情があったかどうかは二の次で、吸い込まれそうな怖さは、女性に対して感じたことはない。やはり相手は男性だから感じるものなのだ。
めぐみは、自分が男に対して尽くすタイプだなどと感じたことはなかった。瀬川に出会って、自分の張っている虚勢が相手によってはわがままに写るのではないかと考えるようになっていた。
「いや、君は今のままでいいのさ。僕は君の個性が好きなんだからね」
と瀬川に言われ、安心した。だが、最初に感じた言い知れぬ不安が完全に抜けることはなかったのだ。やはりそれは瀬川には妻子があるということをどうしても意識してしまっていたためだろう。
別れることでその不安からは開放される。ホッとした気分に浸った時間があったのも事実だが、どうしようもなく寂しくもなる。仕事で補えない部分が出てくるのは、生身の人間の暖かさは仕事では埋めることができないからだ。
作品名:短編集84(過去作品) 作家名:森本晃次