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短編集84(過去作品)

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 コーヒーの香りとゴムの臭い、どこか共通性があるように思う。コーヒーの香りが好きになったのは、コーヒーを感じる時に、ゴムの香りを思い出しているからかも知れない。臭いにインパクトがあり、口の中に味まで感じてしまうようなコーヒーの香りは、臭いがなくなってもしばらくは口の中に残っている。
 ゴムの香りにしてもそうだ。臭いというのは、文章にしたり会話だけではなかなか伝わらない。いくら似ているものを表現しても、相手にその瞬間伝わるということはありえないからだ。それだけに、臭いの持つ神秘性を感じる。
 それは夢にも言えることだろう。夢を見ている時には覚えているのかも知れないが、臭いにしても色にしても起きてしまえば覚えていない。
 だが、中には覚えているものもある。匂いにしても色にしても、思い込みというものがある。自分の中の潜在意識に組み込まれているものであれば、夢に出てきても不思議ではない。例えば、
――ポストは赤いものだ――
 であったり、
――空は青いものだ――
 などという思いは、意識していなくとも、無意識であって、違和感を感じない。それを潜在意識として覚えているのは、当然のことである。
 夢の中すべてが潜在意識で作られているというわけではないだろう。誰かと夢を共有しているという考えが成立するならば、他人の潜在意識も存在するはずだ。時々怖い夢を見ていて寸前で眼が覚めてしまうということがある。それも自分の中の潜在意識が、理解できる世界を飛び越えてしまうことに耐えられなかったとも考えられる。
 スナック「パピヨン」は、昔の風俗店の名残りがあるのか、鏡が残っている。
「何かたくさんの人から見られているようで気持ち悪いね」
「ああ、これね。ママさんが取り外そうとしないのよ。私も何となく気持ち悪いんだけどもう慣れちゃったわ」
 笑いながら泰子が話していた。
 洋子は鏡を見るのが嫌いだと言っていた。理由を聞いたが、理解できる範囲を超えた答えが返ってきたようで、よく分からなかった。とにかく鏡が持つ魔力のようなものが怖いのだそうだ。
 泰子は店で鏡を見るのは気持ち悪いと言っていたが、自分自身で鏡を見るのは好きらしい。店に出る前だったり、どこか少し遠くに外出する時など、一時間以上も鏡を見ながら仕度をするという。ほとんどが自分の表情の確認なのだそうだ。
「鏡を見ていると、時々後ろから見られているような気がして、ドキッとしてしまう時があるの」
 泰子は肩を竦めた。
「鏡って何か魔力のようなものを感じるね。誰かに見つめられていると思うのもそのためで、しかも後ろからというのは、鏡に写る自分の背中を自分で見つめているような変な気持ちになりますね」
 自分で言っていて途中で分からなくなるくらいだったが、
「そうですね。例えば、右の手と左の手で温かさが違う時に、それぞれの手を握り合ったりすると、どちらの手の感覚が強いのか分からなくなりますよね。まったく違う感覚でありながら、相関した感覚なのですから、当たり前のことといえば当たり前ですよね」
 と、泰子は切り返してくれた。これも漠然と聞いていれば、分かりにくいし、自分の返事に対する返答ではないように思えるが、武藤にしてみれば。的確な回答を得られたような気がして満足していた。
「鏡って夢の世界に似ていますね」
 俯いたまま、何かを考えていた武藤だったが、泰子の言葉でふっと頭を上げた。
「僕は結構あなたの夢を見ることが多いんですよ」
 きっと泰子も同じことを感じているに違いないという思いが強かった。顔に若干の動揺を感じたが、
「そうなんですか、それは光栄ですね。夢の中の私ってどんな感じなのかしら?」
「清楚な感じなんだけど、その中にあどけなさがあるんですよ。今のあなたと反対のイメージがあるのかな?」
「じゃあ、表向きは清楚に見えないのかしら?」
「妖艶な雰囲気がありますね。清楚という感じではないです」
「それはスナックにいるから、そんな雰囲気になってしまうんでしょうね。でも、妖艶な雰囲気と清楚な雰囲気って一緒に出ないのかしら?」
「感じる相手によって違うんじゃないかな? 君だって相手によって会話の雰囲気を変えるでしょう?」
 少し考えていたが、
「確かにそうね」
 と答えてくれた。会話のキャッチボールに、何か駆け引きのようなものさえ感じる武藤だった。
 鏡の世界について考えていると、洋子と泰子が次第に正反対の人間ではないかと思えてきた。それはあくまで武藤自身にとっての正反対であって、他の人からみれば、似たような性格に見えることだろう。
 正面から見ればあまり似てないように見えても、後姿がそっくりだったりするではないか。洋子と泰子はまさにそうだ。
――どうして今まで気付かなかったんだろう?
 きっと鏡を意識することによって、初めて気付いたのだ。しかも今まで後姿など気にすることもなかったからだ。
 しかし、一度アーケードで見かけた後姿がそっくりな、「他人の空似」とまで思えた女性を追いかけてみた時に初めて、後姿が似ていることを思い知った。最初は洋子だけを思ったのだが、場所がアーケードということもあり、次第に泰子を思い出していった。
 今では泰子の方が武藤の中で大きな存在となっている。母親に雰囲気も似ているだろう。
いや、母親という意味で考えれば洋子の方が似ているかも知れない。しかし思い出したのは泰子を見てからだ。三段論法ではないが、だからこそ、洋子と泰子に共通点を見出そうとしているのだろう。
 今、武藤の頭の中では果てしない想像が巡っている。
 泰子と洋子、二人は鏡を見てしか存在できないのではないか。どちらかが鏡の中にいる時は、どちらかが現実の世界にいる……。
 ここまでくれば妄想の世界ではないかとも感じる。妄想癖がある方だが、それが現実だったりすることもあったような気がする。それが「虫の知らせ」というものなのかも知れない。
 片方が表に出ている時は、片方は鏡の世界、その鏡の世界がもし夢の世界だったら……。そう感じると、夢の世界がすべて左右対称ではないかとも感じる。だからこそ、潜在意識の中でしか動けない。鏡の世界とは、現実の世界以上であっても、以下であってもならないのだ。
――まったく正反対のもの――
 だが、果たしてそうだろうか?
 誰も考えたことのない発想を自分でしていることに、少なからずの興奮を覚えている武藤。泰子を思い、洋子を思い、そして自分を顧みる。
――鏡の世界の中にも自分に似た人がいるのも知れない。そして、時々自分と入れ替わりに表に出てきているのかも知れない――
 少し震えてきた。恐怖による震えなのだろうが、震えを感じると、止まらなくなってくる。
 汗が背中に滲んでくるようだ。冷たい汗。頭痛も感じる。果てしない考えが汗を掻かせるのだろう。
 気がついたら朝だった。
――夢を見ていたんだ――
 夢を見ていることを夢に見たようだ。汗は背中にじっとりと掻いていて気持ち悪い。本当に今までに感じたことのないような冷たい汗だった。
 夢とは、冷めてくるにしたがって忘れていくものだが、その日の夢は、目が覚めてからもしばらくは、夢の世界から抜けられないでいた。
作品名:短編集84(過去作品) 作家名:森本晃次