短編集84(過去作品)
そういえば、武藤が小学生の頃に、住宅街に住んでいる友達の家に遊びに行った帰り、少し遅くなって真っ暗になってしまったことがあった。その時は、どこの角をどう曲がったのか、いつも同じところへ出てきたような気がしてしまった。最終的には何とか抜け出すことができたのだが、その間、どれだけの時間が掛かったのか想像もつかなかった。暗闇を彷徨っているだけで、どれだけ歩いたのか、足の痺れも若干あったが、それも次第に心地よいものに変わっていた。
その時から、住宅地へ入り込むことはあまり好きではない。その時に彷徨っていた時間が本当に自分の時間だったかとまで考えていた。子供の頃から絶えず何かを考えることが好きな子供だった。そのため、自分の時間を貴重に感じることが大切だと思うようになっていた。
その時は、夏だった。まだセミの声も煩わしい頃で、夕日が沈んでも蒸し暑さのために、汗が容赦なく背中をつたった。
流れる汗を拭きながら冷房の効いた電車に乗り込んだ時は、助かったと思った。電車の中から見た表は暗闇に支配されていて気持ち悪かったのが印象的だったが、それからどうやって家に帰り着いたのか覚えていない。きっと電車に乗るまでに精神的な疲労困憊に陥っていたことだろう。
冬になれば今度は風の強さが身に沁みる。痩せているせいか、少々重ね着をしても辛い。
木枯らしが吹きすさぶ中歩いてきたが、店に入るとそんなことはすぐに忘れてしまった。
「武藤さんが一人で来るなんて初めてね」
最初に武藤のことを無口だと言った泰子がいるだけだった。まだ開店してから間がない時間なのか、テーブルの上でおしぼりを畳む作業をしていた。
開店間もない時間だと、普段見ることのできない女の子の素顔が見れるものかも知れない。
「泰子さんは、いつも開店の用意をする役なの?」
「決まっているわけじゃないんだけどね。私が一番日が浅いから、私がすることが多いわね」
まだ水商売に染まっていないようだ。口に出すと怒られそうだが、開店準備をしている姿も様になっている。どこか世話好きの雰囲気のある泰子は、案外家庭的な女性なのかも知れない。
母親を思い出していた。大学入学とともに家を出てアパート暮らしを始めたが、それも田舎の生活に嫌気がさしていたからに他ならない。子供の頃に遊びに行った例の住宅街、
――こんなところに住めればいいな――
と真剣に感じたものだ。
田舎が嫌になったのはその時だっただろう。
母は、都会で育った人だった。裕福な子供時代を過ごしたらしいのだが、祖父にあたる人が事業に失敗したようで、家督が没落してしまった。そこで田舎に嫁ぐことになってしまったようなのだが、それ以上の詳しい事情を聞くわけにもいかず、そのまま知らないままだった。
父と知り合った頃、母はウエイトレスをしていたようで、惚れこんだのは父からの方だった。田舎の生活が続いてなかなか女性と知り合うことのなかった父に、没落したとはいえ、貞淑な少女時代を過ごしていた母が眩しく見えたのではなかろうか。
なぜかその時の父の気持ちが分かるような気がする。お互いに不器用な付き合いから始まって結婚までがどのようなものだったか、想像するだけで微笑ましさを感じる。
今の母は、「肝っ玉母さん」のイメージが強く、割烹着を着て、台所に立っている姿が一番似合うような人だ。波乱万丈な少女時代に順応性が養われたのかも知れない。泰子を見ていると、歳を取ると母みたいな女性になるのではないかと思えてならない。
泰子は気が強そうな女性だ。芯がしっかりしていそうで、自分の世界を持っているに違いない。結局店でしか会うことがないままでいるが、一度は表で見てみたいものだ。デートに誘う機会かないわけではないが、なぜか戸惑っていた。
――水商売の女性をデートに誘うとなると、やっぱり身体が目的になるのかな?
などと無粋な考えを抱いてしまう。相手がその気になれば必ずその場の雰囲気に流されてしまうだろう自分が目に見えるだけに、戸惑わせてしまうのだろうか。
本能のままに身を委ねることを決して嫌っているわけではない。むしろ本能の赴くままに行動することこそ人間の摂理だと思っているくらいだ。
――ではなぜ戸惑うのだろう?
相手が泰子だからだ。もしスナックにいる他の女の子だと、もう少し違った感情になるに違いない。
ある日、街を歩いていて、泰子によく似た女性の後姿を見かけた。思わず声を掛けようと近づいたが、なぜかその距離が縮まらない。
縮まらないばかりか、だんだん遠ざかっていくような気がして仕方がない。
彼女はアーケードのある商店街を抜け、そのまま住宅街へと歩いていく。アーケードとは、今来ている喫茶店のあるアーケードで、住宅街は少し離れたところにあるのだが、彼女を追いかけたい一心で、気がつけば時間も忘れて彼女の後を追いかけていた。
そこの住宅街に足を踏み入れたのは、実は初めてのことだった。しかし、そこまで来るのに何の意識もなかったわりには、住宅街に入った瞬間、
――あれ? 以前にも同じような光景を見たことがあるぞ――
と感じたのだ。
確かに住宅街といえば、どこも似たり寄ったり、同じような家が並んでいて、小高い丘のようなところに位置していることが多い。しかもしっかり区画されているためか、角も多く、どの角を曲がっても同じ光景が目に飛び込んでくる。
――これが住宅街なんだ――
ということは最初から分かっていた。子供の頃から住宅街に足を踏み入れるということは、
――袋小路に迷い込んだようなものだ――
と思うようにしているからだ。
実際にここの住宅街もそうだった。入り込んだ瞬間に、子供の頃の記憶がよみがえったに違いない。しかし、
――あれ? 以前にも同じような光景を見たことがあるぞ――
と感じたのは、それだけではないのだ。誰かを追いかけてきて迷い込んだという記憶があるからだ。
それも小さな頃の記憶ではない。ごく最近の記憶なのだ。
ハッキリとした記憶なのに、ところどころしか覚えていない。
――まるで夢のようだ――
そう、断片的にしか覚えていないということは、やはり夢だったのではないだろうか?
夢だったと考えれば夢の中でも誰かを追いかけていたことになるが、それは誰だったのだろう? 少なくとも泰子に似た女性ということはありえないように思う。泰子に似た女性を追いかけたのであれば、最初に後ろ姿を見た時からの夢の記憶を思い出してもいいからである。断片的な中で覚えているのは、あくまでも住宅街の中だけのことなのだ。
一生懸命に追いかけていたが、結局角をいくつか曲がったとことで見失ってしまった。気がつけば住宅街のど真ん中、その後どうやってそこから帰ったのかも分からない。覚えているのは、角の電柱のところに赤いポストがあったということだ。
スナック「パピヨン」に初めて一人で出かけたのは、それからすぐのことだったのだ。
その時に一人、カウンターにいたのが泰子だったのは、ただの偶然だろうか?
作品名:短編集84(過去作品) 作家名:森本晃次