短編集84(過去作品)
不倫相手が話していたっけ。
「女性って、男に抱かれながら眠ると、心地よい気だるさを感じるのよ。身体全体が敏感になって、シーツのちょっとした擦れであっても、ものすごい快感になったりするの。男の人にもあるのかしらね」
「男性にもあるだろう。だけど、女性が感じているほど敏感じゃないと思うよ。抱き合って眠っているくらいがちょうどいいのさ」
というような会話をしたことを思い出した。
その時の女の声は擦れていた。妖艶で淫靡で、それでいて甘えているような猫なで声でもある。それが聞きたくて女性を抱きたくなる時があるといっても過言ではないだろう。
美咲の身体の感触をしばらく忘れないために、最後にもう一度抱いた。
――時間がもったいない――
抱きながら考えていたことだ。なぜ時間がもったいないなどと感じたのか分からないが、決して焦っていたわけではない。
最初は時間が余るほどあると思っていたが、朝が近づくにつれて時間の進みの早さを感じるようになっていた。その場の雰囲気に身体が順応したのが遅かったのか、それとも普段と変わらないつもりでいても、相手の違いによって、自分の感覚がずれていたのかハッキリとは分からない。
少し風邪気味なのか、鼻がムズムズしてきた。身体の熱さや敏感になっているのは、快感に酔いしれているだけではない。
服を着て表に出ると、まだ表は真っ暗だった。もう少しゆっくりしていても良かったが美咲が、
「早めに出ましょう」
と言ったからだ。きっと一度部屋に帰るのだろう。
女性はどうしても、一度帰って少なくとも着替えたいのだろう。その気持ちを汲んで、野本氏も早めに出ることにした。
時計を見れば六時半、早いといっても、通勤する人がちらほらといる時間帯である。近くの駅は比較的大きな駅なので、そこまで行けば朝食を食べるための喫茶店はいくつもあるだろう。
美咲をタクシーで送り出した後、野本氏は歩いて駅まで向かった。少し風があり、思わず背筋が曲がって歩いているのに気付いた。風邪気味なのも影響しているのだろう。
しかし風邪気味なわりには頭はスッキリとしていた。部屋の中にいる時の方が意識は朦朧としていたように感じる。表で風が強く吹いて、身体に沁みこんで来る時はさすがに頭痛を感じるが、そうでもないと普通に歩ける。駅まではすぐのところまで来ていた。
大通りを歩いていると途中にあるドラッグストアを見つけた。七時前であったが、開店直後のようで、さすがに薬が欲しくなった。
「頭が痛いんですが」
「風邪ですか? 最近流行ってますからね。これなんかいいですよ」
と言われて薦められた漢方薬を買った。その場で一包と、サービスのスタミナドリンクを飲むと、身体の奥から熱くなってくるものを感じた。
「結構即効性がありますね。身体が熱くなってきました」
「そうですか、それほど即効性はないんですけどね」
先ほどまでの身体の火照りがまだ残っているからだろうか、心臓の鼓動も先ほどを思い出すほどに高なっていた。
だが、もう興奮してくることもない。身体が高ぶってきたとしてもそれは風邪のため、そう感じれば、身体の奥から熱さが滲み出てくることはない。落ち着いた気分で、駅前にある喫茶店に入った。空腹でお腹が鳴った。
喫茶店の中は客が一人いるだけで、他に誰もいなかった。男の人がカウンターに座り、背中をこちらに向けている。もしカウンターに誰もいなければ、自分が座っただろうと思いながらテーブル席へと移動した。表がよほど寒かったのか、ガラスは真っ白に曇っていて、表を確認することはできない。
先ほどの美咲の身体の感触がまだ残っている。暖かさに包まれているように感じながら薬が効いてきたのか、部屋が暑すぎるのか、背中にジットリと汗を感じた。
――せっかく落ち着いていたのに、また熱が出てくるかな?
しかし、その心配はなかった。程よい暖かさが身体を包んでいた。
汗が引いてくると、今度は我に返ってくる。先ほどまでは感じなかった罪悪感が忍び寄ってきたのだ。罪悪感を払拭するかのようにコーヒーを一気に飲むと、頭がぼやけてくるのを感じた。指先が痺れ、瞼が重い。睡魔が襲ってきているのだ。
意識が朦朧としてくると、妄想を抱くことが多い。
自分が意志を貫いている人間に思えてくる。意識が朦朧としていると肝心なところの意識がない。しかし時代がかなり遡っているような気がしているのは確かなようだ。それだけに本当の自分ではないという意識からか夢のように思えてくる。
意識の中で何人斬ったのだろう。人を斬っている意識がハッキリとしないが、その咎からか、自分が処刑されるのはハッキリと分かった。
頭の上で刀が光る。一刀両断の元、感じた熱とともに、脈打っている首筋から先は違う世界に飛んでいった。
――首だけが見つめる世界――
それが今の世界なのだ。
――自分の身体はどこに行ったのだろう?
見つめる先にあるテーブルの上に、見覚えのあるピンク色が飛び込んできた。
ちょうど上下を逆さまにしてすぐなのだろう。下は山というよりもとんがり帽子のようだ。
――いったいこの砂時計は、どれだけの時を刻んできたのだろう?
自分の気持ちの中で時々麻痺して感じるものがあった。罪悪感をまったく感じなかったり、わざと忘れていたり、自分の中で計算している感覚が麻痺しているのだ。
そんなことを感じていると、先ほどまであれだけ熱かった身体が冷たくなってくるのを感じた。自分の身体がこれだけ冷たかったのかと思うと、血が凍りついてしまったかのように感じられる。
――身体はどこに行ってしまったんだろう?
先ほどまで感じていた暖かさは自分の身体であって、自分の身体ではない。時々首が脈を打ったように熱くなることがあるが、その日に見た怖い夢を思い出してのことだった。それが首を切られる夢だったことを今日になって分かったのである。
まだ、火照った身体のまま、頭と身体を切り離されたようだ。頭の中には火照った身体しか記憶がない。何という恐ろしい夢を見たのだろう。
不倫に対して何も感じなかったのは、以前にも同じ感覚でいたことがあるからだろうか?
自分にとっての意志があまりにも他の人の行動と伴っていなかったことが、斬首という憂き目を迎えたに違いない。
相手の女の亭主を斬った。もしその時に目の前に鏡があり、見つめていたなら、にやけている自分の顔を拝むことができただろう。罪悪感など何もない、殺されるべくして殺された男、そう感じていた。
――女を苦しみから解放したのだ――
だからこそ、報酬を十分に受けてもいいではないかとも感じる。
身体の熱さに変わりはない。漢方薬が沈めてくれているのか、それとも即発しているのか分からない。記憶を呼び起こすためのカンフル剤にはなっていた。
しかし、それが後世に因果として残していたようだ。
斬首された時で終わっていればそれでよかったのだろうが、もう一度同じ後世で相手の女に出会うなんて思ってもみなかった。そのキーワードが「砂時計」であり、「水晶玉」だったのだ。
作品名:短編集84(過去作品) 作家名:森本晃次