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短編集84(過去作品)

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 懐かしさは、あっという間に時をさかのぼらせた。店内の気持ちよさも手伝ってか、最初は幻かと思ったくらいだ。
 美咲がクラシックを好きだったのは知っていたが、あまりにも偶然すぎて、あとから考えれば本当に偶然だったのかも疑わしいくらいだ。お互いに心の底で、無意識であったとしても、
――会いたい――
 と思っていたからに違いない。それならば偶然ではなく必然といえるのではないだろうか。
 喫茶店自体が静かなところなので、あまり大きな声で話すわけにはいかない。喫茶店を離れたくない気持ちはお互いに持っているようで、小声で少し話をした。
 店内には暖房が入っていて、最初は睡魔を誘うにはちょうどいいくらいだったが、今では汗が滲み出てくる。心臓の鼓動をハッキリ感じることができ。美咲の鼓動まで感じることができるような気がしていた。
 小さな声がこれほど妖艶で淫靡なものだとは知らなかった。美咲の声はいつもより少しトーンが低めで、擦れ声はまさしくハスキーボイスだった。またしても大人の女を感じている。
 お互いにいろいろ聞きたいこともあったのだろうが、なかなか声にならない。というよりも、店内の雰囲気に酔っていたといった方が正解だろう。睡魔は相変わらずで、美咲の顔を見ていると安心して眠ってしまいそうな気分になるのは、気のせいではない。
 大人の色香が安心感を与えるものだということは、不倫相手の女性で実感していた。危険を冒してまで不倫をするのは、相手に安らぎを求めているからで、それが安心感に繋がるのは必然である。
 店内でのクラシックは、次第に重層な音楽へと変わってきた。それでもうるさいという感覚はない。そのままお互いに話しながら眠ってしまったことを、まるで昨日のことのように思い出していた。
 自分の部屋を暗くして、壁に掛かった絵を見ながら、机の上のスポットライトだけで、砂時計が落ちるのを見ている。
 いつもというわけではないが、ほとんど毎日仕事から帰ってきて、落ち着いてからの日課になっていると言っても過言ではない。いつも帰ってくる時間が同じというわけでもないのに、一日の中で毎日まったく同じ時間が存在するとすれば、この時間だけだろう。きっと他の人にも、同じような時間が存在し、ただそれを無意識に過ごしているだけのように思えてならない。
 したがって、それはこの時間を知るまでの以前の自分にも言えることで、時々それが何だったのかを考えようとしている自分に気付くことさえある。
「このまま、ずっと時間が過ぎなければいいって感じたことない?」
 美咲と出会ったその日に話していた。
 クラシック喫茶を出ると、二人は夕食をともにして、楽しいひと時を過ごした。出会ったその日だったので、それ以上の展開を期待していなかったし、期待してはいけないと思っていたが、美咲の気持ちは決まっていたようだ。
「今夜は一緒にいて」
 恥ずかしそうに下を向きながら呟いた。以前なら少し戸惑ったかも知れないが、その時の野本氏に戸惑いなど一切なかった。
 ホテルに入ると、表のネオンサインの煌びやかさとは打って変わって、静寂が暗闇を支配していた。目が慣れてくると薄暗がりになるのだが、いつも自分の部屋で感じている明るさを思い出していた。
 恥ずかしそうに服を脱ぐ美咲だが、白い肌が、暗闇に浮かび上がっているのを見ていると、目が離せなくなってしまう。
 次第にドキドキしなくなっていた。確かに心臓の鼓動は高ぶっていることに違いはないのだが、それは緊張感からくるもので、期待感に対してはむしろ懐かしさのようなものを感じる。
 初めて美咲を抱くことになるのだが、初めてだという気がしないのだ。しかも女性を抱くということ自体にあまり感動を覚えなくなっているのも事実のようだ。
 美咲はどうなのだろう?
 仕草を見ているだけでは恥じらいを感じることができるし、聞こえてくる吐息には切なさが感じられる。
「熱いね」
 まるで熱でもあるのではないかと思えるほど身体が火照っている。自分から誘うような雰囲気だったわりには、心の準備がどこまでできていたか疑わしい。
 抱いた身体にはやはり懐かしさが感じられた。しかもごく最近感じたような気がしてならない。しかもこの懐かしさは身体に感じるだけのものではなく、シチュエーションすべてに感じるものだ。
 こんなことは初めてである。不倫していた相手とだって、懐かしさを感じても、同じシチュエーションで感じるなど一度もなかった。会えば必ず愛し合っていた仲なので、当然身体に感じる懐かしさは当たり前なのだが、その一回一回でどこかが違ってしかるべきだった。
――夢で抱いたのだろうか?
 夢で抱いたにしては、身体に残っている感覚はあまりにもリアルな感じがする。しかも自分が次に考えるであろうことも予想がつくのだ。最初から頭に浮かんでくるのである。
 しかし最初に感じた懐かしさも、美咲の触ると蕩けてしまいそうな熱くなっている身体に感覚が麻痺してしまい。あとは普段と同じように本能の赴くままに身体の動きに身を委ねるだけだった。
 それは美咲も同じだっただろう。野本氏の身体をしっかりと受け止め、快感に体を震わせながら、彼自身を受け入れる。女としての性である。
 果てた後でも身体に残った快感は収まらない。心臓の音とともに耳鳴りを感じながら天井を眺めていると、絨毯のような模様が目に飛び込んでくると遠近感が取れなくなり、まるで天井が落ちてきそうな錯覚に陥ってしまう。
 美咲は小さく寝息を立てていて、実に気持ちよさそうに寝入っていた。胸の鼓動だけを感じることができ、身体から吹き出した汗も、すっかり乾いてきていた。
 あれだけ熱かった身体もすでに心地よく、自分とほぼ同じくらいの体温になっていることから、肌の感覚が麻痺しているようで、密着感をあまり感じない。
――触れるか触れないかの感覚――
 その心地よさにしばし酔いしれていた。
――時間が急に進んでしまったような気がする――
 一瞬だけだが、そんな風に感じた。
 何か根拠があるというわけではない。それまでの時間がゆっくりだったような気がするからだろうか? 女性と身体を重ねている時は、普段とは違う時間が流れていて、それに乗っかっていることを自分が意識しているか、していないかで、果てた後の気持ちが変わってくるように思えてならない。
――今日は何となくだけどすがすがしいな――
 きっと、時間の流れの違いを意識していたことだろう。意識しているからこそ、本能の赴くままに身体が動くのだと思っている。
 心地よい頭痛も感じるのだが、睡眠時間が中途半端だったり、浅い眠りだったりすると起きた時に頭痛がすることがある。それはすぐに治るもので、朦朧とした意識の中で感じるものなので、時として心地よく感じることもある。
 まさしくその時が、
――心地よい頭痛のする時――
 だったのだ。
 枕元の時計を覗くと、すでに朝方近くになっていた。野本氏は初めて目を覚ましたのだが、美咲はどうだったのだろう? 身体の密着度から考えると、とても身体を起こしたようには思えない。目が覚めても、またすぐに寝息を立てたのではなかろうか。心地よい気だるさを感じているような気がする。
作品名:短編集84(過去作品) 作家名:森本晃次