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短編集84(過去作品)

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――そうだ、美咲の香りだ――
 その時まで、美咲を必要以上に意識したことはなかった。確かに綺麗な女性であり、どこか自分に似たところのある女性だということは感じていた。しかし、似たところがあるからといって、性格が合うとは限らない。却って反発しあうことも考えられる。
 それでも何かを感じてしまうといい意味で気になり始める。そのきっかけが香水だったのだろう。
 香水がどこから香ってくるのかを探してみたがどうしても分からない。最初はどこか一箇所から香ってきたように思えたが、最初に見つけきらなければあっという間に部屋中に充満してしまうようで、気付いた時にはやはり遅かった。
 野本氏が不倫をしている相手にも香水の香りを感じていた。それは美咲とは違い、甘く切ないものだった。入り込んでしまうと抜けることのできない、まるで麻薬のような香りである。アリ地獄を想像してしまうのも無理のないことかも知れない。
 しかし、美咲に感じる香りは違った。柑橘系の香りである。レモンのような黄色が鮮やかな世界に映える香り、目を瞑って感じた方が明るさを感じるように思える。薄暗い部屋の中で目を瞑ってみることにした。
 エンジ色の膜が瞼に浮かんでいる。厚い膜であり、明かりの光跡にも似たものが残っているように見える。錯覚ではない。明るいところで目を閉じた時に感じる光跡だ。薄暗がりで感じることなどなかったのに、錯覚ではないと思うのは不思議だった。
 先ほどまで包まれていた甘い香水にまだ胸が高鳴っているのは事実だが、次第に違う興奮が自分の中に芽生えてきたことを感じ始めた時だったのだ。
――美咲の存在が、もう自分ではどうすることもできなくなるほど大きくなってきたのではないだろうか――
 分かっていたことかも知れないが、冷静に受け止めている野本氏だった。
 真剣に恋愛をしてみたいとは思っているが、相手を考えると、そこまでの女性がいないのが実情だ。初めて感じた相手が美咲なのかも知れない。そういう意味で、存在が大きくなっているのだろう。
 不倫というものが身体だけの関係ではないというのは今でも感じていることだ。後悔しているわけではない。却って、そんな時期があったことをよかったと思っているくらいだ。
何も得るものがなかったわけではない。しかし、かなり遠回りしていることだけは事実なのだ。
 それを感じることができたのは、美咲の存在があったからだ。美咲に対して恋心が最初からあったかどうか定かではないが、今から考えると、子供の頃に自分で気付かなかった感情を思い出しただけのような気がするのだ。
 美咲と再会したのはクラシックの流れている喫茶店だった。そこは一年くらい前のことで、通っていたクラシック喫茶、最近では珍しいが、気持ちにゆとりを持ちたい時などよく顔を出していた。
 店内は薄暗く、黒を基調にしたシックな造りになっている。壁には明るい絵が掛けられているが、店内がくらいために鮮やかな赤がエンジ色に見えたりする。それもマスターの狙いだったようだ。
「明るい絵も暗くしてみると、クラシックに合うんだよ。これは僕だけの感覚かも知れないけどね」
「いやいや、これはなかなかな発想ですよ。僕なんかのような素人には、失礼だけど、偶然の産物にしか見えなかったからですね」
 絵に対して素直に向き合ったことしかない野本氏は、目からウロコが落ちた気がした。
――芸術作品には逆らった気持ちを持たず、素直に直感で楽しむものだ――
 と思っていたからだ。
 もちろん、それも間違っているとは思っていない。しかし、見方にいろいろあっていいということだ。角度によって見え方が違うように、心の目にも角度があってもいいのではないだろうか。自由な発想こそが芸術から得られる「ゆとり」というものに繋がるのだとその時に初めて実感した。
 そういう意味で、その日は最初から心の視界が広かったに違いない。
――今まで見ることのできなかったところを見ることができるんだ――
 と感じていたはずである。
 いつもであれば、コーヒーとケーキを楽しみながら、文庫本を開いて読んでいる。そして、襲ってくる睡魔に逆らうことなく、しばらくすると夢の世界へと旅立っている。その日もご他聞に漏れず、心地よい睡魔が襲ってきて、深く受け止めてくれるラバーのソファーに身を委ねながら、夢見心地へと旅立っていた。
 その日流れていたメロディーは「G線上のアリア」、一番眠くなりそうな曲である。
 夢の中で砂時計が時を刻んでいる。
 喫茶店でクラシックを聞きながら眠っているということを意識しているはずなのに、目の前にあるのは、自分の部屋の砂時計である。比較的ゆっくりとしたメロディに奏でられた雰囲気の中、ゆっくりと山を作っているピンク色の砂、いつもは小さすぎて見えないくらいの砂粒が、目を瞑ればハッキリと見えてくるようだ。
 砂粒を意識することができるから光って見えるのかも知れない。一つ一つ形も違えば大きさも違う。それぞれに光と影の部分があり、光の部分が目立っているのだ。上から落ちてくる砂が下の砂を押し出している。一点にだけ集中して落ちてくる様が美しい三角形を作り上げている。
 部屋にはこの喫茶店にあるのと同じように、いくつかの絵を飾っている。明るい色を基調にしているが、帰ったばかりで明かりをつけていない時は、エンジ色に浮かび上がっているように見えて仕方がない。そういう時は敢えて明かりをつけようとせず、少しだけ見つめるようにしている。
 浮き上がって見えるのだ。立体的といってもいいだろうか。正面から見るのであれば明るい時の方が明るい部分と影になった部分を綺麗に映し出しているので立体感があるが、横から見るのであれば、暗い時の方がはるかに立体感がある。
 横から見ると、色が凝縮して見えるのだ。白い部分はさらに白く、暗い部分はさらに深く見える。したがって明るい色というよりも白い部分だけがクッキリと浮かび上がって見えるのも無理のないことなのだ。
 砂時計に焦点を合わせてみているが、その後ろに見える壁に掛かった絵が浮き上がって見える瞬間だけ、視線が変わってしまう。そんな時、時間の流れが変わったように感じるのは気のせいだろうか。
 目を離した瞬間があっという間だったように感じるが、実際はかなりの時間が経っているように思う。暗い部屋にいる時はそれほどないと思っていても、気がつけば一時間も暗い中にいた時もあるくらいだ。どこかで時間の感覚が変わったのか、環境が変わったのかしか考えられないではないか。
 一旦目が覚めると、隣の席に女性がいるのに気がついた。いつもはあまりまわりを気にする方ではないが、その日は何となく視線を感じた。
「野本くん?」
「美咲さん?」
 薄暗いにもかかわらず、お互いにすぐ相手が誰か分かったようだ。美咲とは最後大学生の頃に同窓会であっているが、その時とほとんど変わっていない。
 同窓会で会った時の美咲は、中学時代とはかなり違っていた。中学時代はまだあどけなさがあったが、さすがに大学生ともなると、大人の色香が漂っていた。今でも同窓会で再会した時のことは忘れない。
――彼女に感じた色香を、また感じることができるなんて――
作品名:短編集84(過去作品) 作家名:森本晃次