ふたりでひとり
それならばと、彼女と一緒に話をしたことだけでも忘れないようにしようと思い、時々思い出していたが、そのたびにその内容が少しずつ変わってきているのに気が付いた。
前述のようなドッペルゲンガーの話が一番印象に強く残っているのだが、果たしてそれはすべて会話によるものだったのかが自信がない。
――もしかして、その場面を客観的に見ていたのではないか――
と思っていたが、それもまんざらではないと感じたのは、話の内容がドッペルゲンガーだったからなのかも知れない。
――普段の自分なら、もっとリアルに感じるのではないか?
という発想は、ある意味普通の発想であったが、この時は違った。
逆に、
「あの時のことをピンポイントで思い出すと、思い出の中にこそ、リアルさが感じられる」
という思いがあったのだ。
そう思うと、あの時の自分が今の自分ではなく、ひょっとするとあれこしがドッペルゲンガーで、今の自分の身体の中にいて、あの時のことを思い出すと表に出てくることで、余計にリアルな感覚を味わうことができるのだと思うと、自分に対しての説得力は大いにあった。
そのことを小説に書こうと考えていた。そうすれば、発想はいくらでも出てくる気がしたからだ。
しかも、思い浮かべるのは自分であって自分ではない。ドッペルゲンガーだと思うと、余計に思い浮かぶのだった。
だが、思い浮かぶ反面の怖さは、絶えず持っていた。不安が憤りに変わり、恐怖へと変わる。普通のことであれば、不安が憤りに変わっても、恐怖にまでは行かないだろう。それを恐怖だと感じるのは、ドッペルゲンガーというものを信じているからに違いない。
恐怖というものが果たしてどこから出てくるものなのか、中西は考えたことがなかった。いや、考えたことはあったのかも知れないが、忘れてしまうという作用に見舞われてしまっている。
それは覚えていたくないという意識からなのか、それとも果てしなく広がっていく恐怖を打ち切りたいという思いからなのか、その両方なのかも知れない。
頭の中にある発想を、ネタ帳に書き写す。それもわざと汚い字で書いた。元々ネタ帳を綺麗な字で書くことはなかった。その理由は、人に見られた時、
「何を書いてるんだ」
と言われて、それを説明するのが億劫だったからだ、
「趣味で書いている小説のネタ帳」
というだけでは済まない気がした。
別にそれだけであれば問題ないのだが、
「どんなジャンル?」
であったり、
「投稿とかしないの?」
などと言われて、いちいち言い訳がましい話をするのが億劫だったのだ。
嫌だと言ってもいいかも知れない。
それにネタ帳は、
「思いついた時、いつでもどこでも書き留めておけるようにするため」
という理由があった。
だから、歩きながらでも思いつけば、立ち止まって書くことがある。そんな時、綺麗な字で書くなど結構難しかったりする。そのため、限りなく意識しているに近い無意識な状態で、ネタ帳を汚い字で書く癖がついてしあったのだろう。
ネタ帳はその当時で三冊くらいになっていた。箇条書きのようで、少し違う。ネタ帳を元に書いた作品もいくつかあるが、まだ長編を書くほどまでに小説を書き込んでいないのだが、実際には、
「短編、中編の方が難しい」
と言われている。
中西の書く小説の特徴として、
「一人称目線が多い」
というものだった、
今までに読んだ小説のほとんどが三人称目線であるにも関わらず、一人称目線になってしまうのは。、
「まだたくさん書いているわけではないからだ」
と思っていた。
まるで日記か作文を書いているような感覚で書けることが一人称目線で見る特徴ではないかと思っていた。
確かに、書き方の基本は時系列に沿った形が根幹にあるということだった。時系列を中心に書いていると、縦目線になってしまうのは仕方のないことで、最初に考えるのは全体像だった。そこからバランスを考えながらストーリ^展開を考える。そのために一人称での書き方は楽でもあった。
小説の基本である「起承転結」や登場人物なども、時系列を基本に考えると結構思い浮かぶものである。
大体どれくらいの分量かによって、全体の時系列、あるいは全体の時間が決まってくる。そこが決まってくると、今度は登場人物の人数などがおのずと決まってくるというものだ。
そのあたりは、ネットであったり市販されている、
「小説の書き方」
などに基本項目として書かれている。
さらに、設計図である「プロット」の書き方も基本的なことは書かれているが、中西にはまだプロットを作成してからの執筆はうまくいかない気がした。
「プロットを作ってしまうと、それに沿って書かなければいけないというプレッシャーに陥ってしまう気がする」
と思っていたからだ。
また別の理由として、
「プロットを完璧に近いもので書けば書くほど、書けなくなってしまう」
という思いがあった。
その理由として。
「プロットを作成したことで、半分以上目的を達成した気分になって。進まなくなるのではないか」
というものであった。
小説を書くこと
中西が風俗でのリアルな感覚をいつまで持っていたのだろう?
気が付けばリアルさは欠如していた。覚えているのは覚えているのだが、完全に頭の中では他人事であった。今まで自分が経験したことで、ここまで他人事のように思ってしまったことはなかったような気がする。
「もう一度行ってみようかな?」
今度は先輩には内緒でのことだった。
あれから先輩とは普通の会話はするが、それ以外は何もない。あの日だけ、先輩にとって何かがあったのかも知れない。
それはともかく、あの時の彼女にもう一度会ってみたいという思いと、今の自分の他人事のように感じた思いの正体を知りたいという感覚があったのが本音だった。
どっちが強いというわけではなく、前者が自分の本能が求める欲望であり、後者が冷静な判断で自らを見つめ直したいという思いからだった。
その両者を、またドッペルゲンガーへの思いと重ね合わせてしまっている自分がいることに気付いた。
どちらが本当の自分でどちらがドッペルゲンガーなのか分からない。だが、
「本当はどっちも自分であってほしい」
というのが本音なのだが、それでは何か説明がつかないような気がして、矛盾を抱えてしまった自分を感じた。
あまりドッペルゲンガーを意識するのはいけないことだと思うのだが、意識しないと自分に対して納得できないという矛盾をジレンマとして抱えていた。だから、それを小説として表に出すことを嫌ったのである。
「何かに形として残しておきたい」
という気持ちがあるのも事実である。
それには小説にして残しておくのが一番手っ取り早いのだが、自分の中で安易すぎる気がした。
「そんなことでは、自分の中にあるジレンマを解消することはできない」
という思いからである。
本当は、
「解消するのではなく、克服するんだ」
という意識を持たなければいけないのかも知れない。