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ふたりでひとり

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 小説家の先生をたくさん見てきたが、紹運先生と隆正は他の小説家とは一線を画しているような気がした。
 紹運先生は小説もさることながら、その行動が意味深で、理解不可能な世界を形成しているように思えた。隆正の場合は紹運先生に見いだされたと言っても、紹運先生とはどこまで行っても交わることのない平行線のように感じられた。それは紹運先生が隆正のことで何かを隠しているということをウスウス感じていたからだった。
 そこにどんな秘密があるのか中西は分からなかったが、分かってしまうことも怖い気がして、敢えて詮索しないことにしていたのだ。
――もし分かる時がくるのだとすれば、それを待てばいい――
 という考えである。
 それが隆正の書いた、
『極限の生還』
 という小説に隠されているということを知る由もなかったが、忘れることができないというのも事実であり、頭のどこかに格納されていたのだが、それが意識なのか記憶なのか、中西本人にも分からなかった。
 中西が書く小説はどちらかというと紹運先生よりも隆正に近かった。いや、近いというよりも、近づけたいという思いの方が強いのかも知れない。特に気になっているのは、怪奇小説でありながら、心理を突くような作品を考えていた。
 人間の深層心理を抉るような作品であり、一見まったく的外れな発想に見えながらも、読む人の中に、
「そうそう、俺も同じことをよく考えるんだ」
 という風に思わせたいと思っている。
 隆正の小説は担当のように、深層心理を抉るような作品ではない。どこか的外れなところがあるが、読み込めば読み込むほど、同意できるところがたくさんある。つまりは、
「何度でも読み直してみたい小説」
 を目指している。
 一度読んだだけではその良さが分からない。だとすれば、ほとんどの人は、もう二度と読もうとしないだろう。しかし、再度読み直して理解したいと思えるような小説はどこかに見えない力が働いているのだ。
 読みながら引き込まれてしまったり、あるいは、どこかに気になるところがあり、その部分が思い出せなかったりして、思い出せないことが苛立ちに繋がってしまって、再度読み直さなければいけないような気がしてくるような話を書いてみたいと思うのだ。
 気になる部分が思い出せないのは、場面がコロコロ入れ替わってしまい、読解に追いついてこないというのも一つの理由かも知れないが、ある種の世界に引き込まれてしまったにもかかわらず、急に場面が変わってしまったことで、もう一度、引き込まれるべく集中するためのポテンシャルを高めなければならない。
 担当は後者のような作品を書ければいいと思っていて、隆正の小説にはこの部分が存在していると思っているのだ。
 だが、なかなかそんな都合のいい小説など簡単に書けるわけもない。もし書けるようになるとするなら、何かのきっかけと、タイミングがうまく重ならなければいけないだろう。しかも、それを自分が意識しなければ、そのままスルーしてしまうような気がするのだ。
 小説を書けるようになった時のきっかけを小説家の先生に聞いてみると、
「ある瞬間、急に書けるようになったんですよ。何かが降りてきたという表現がありますが、まさにそんな感じなんですよ。しかも、それを自分で意識できるんですね。どうして書けるようになったのかということを理解はしているんです。ただ表現しようとすると、どう表現していいのか分からない。それはきっときっかけとタイミングがバッチリ嵌ったからなのではないかと思うんですよ」
 という具体的に話をしてくれた先生もいた。
 紹運先生にも聞いたことがあったが、紹運先生は何も語らず、ただ頷いているだけだった。隆正にも聞いたことがあったが。隆正は、
「何かが降りてきたというのは感じますが、僕にはそれが何だったのかって分からないんですよ。分からないから書けるようになったというのは、ちょっと都合のいい解釈ですかね?」
 と言っていた。
 その後似たような話になった時、今度は少し違う意見を言っていたのが印象的だったのだが、
「たぶん、自分の中で何かのショックを感じたような気がするんです。そのショックが何を自分に及ぼすのか分からなかったんですが、小説を書けるようになったのも確かその頃じゃなかったかって感じています」
 と言っていた。
「そのショックとは具体的にどのようなものだったんですか?」
「ハッキリとは覚えていないんですよ。それが夢で見たものだったのか、起きている時に何かを見て受けたショックだったのか、記憶としてはショックを受けたという思いはあるんですが。それを一体どこでいつなのかと聞かれると定かではないんです」
 中西は彼が過去の記憶を一部失われていることを知らない。
 そう、隆正は記憶が半分欠落しているのだ。すべての記憶を失ってしまったのだとすれば、こんなに長い間、まわりを欺くなどできるはずもない。小説を書く上で、記憶を失っているというのは実際に執筆ができているのだから、別に関係のないことなのかも知れない。
 だが、考えてみれば、
「記憶をすべて失う」
 というのはどういうことなのであろうか?
 自分の名前も分からない。どこから来たのかなども分からない。しかし、字を書くことや喋ることはできている。普通の人が記憶を失うというのは、そういう状態を言うのだろう。
 だから、名前や住所などは記憶なのだろうが、モノを書いたり喋ったりすることは記憶というよりも意識であり、潜在している意識、つまり潜在意識になるのであろう。
 潜在意識を失ってしまう人を見たことはない。記憶は封印することができるが、意識を封印するkとはできないということなのであろう。
 紹運先生の少し前に発表された小説の中に、記憶と意識を考えさせられるような話があった。都市伝説とうまく絡ませた話だったが、その内容は今までに読んだことのないような画期的な話だった。
――僕にもあんな話が書けたらな――
 と、紹運先生の小説の中で、一番そう強く感じたものだった。
 隆正の小説の中にも意識と潜在意識について書いているものもあった。特に潜在意識という発想は夢と繋がっていた。
「夢というのは、潜在意識が見せるもの」
 という話をどこかで聞き、その意見を信じている中西からすれば、隆正の論理は頷けるものだった。
 中西だけでなくとも、読者のほとんどが感心しているものだと信じて疑わない。ただ、賛成という人ばかりではなく、少し違った考えを持ったうえで読んでいる人もいるだろうという前提の元に立っての思いであった。
「夢というのは、目が覚めるにしたがって忘れていくものだ」
 と思っていたが、隆正の話を読んでいると、
「潜在意識という夢は、目が覚めるにしたがって記憶に変わることで、封印されてしまうのだ」
 という結論めいた言葉があった。
 その小説全体に対しての結論ではなかったが、この言葉が妙に印象的だった。
 中西も意識と記憶に関しての小説を書いてみようと思ったことがあった。前提として、
「意識は潜在意識として、常に忘れることはない。記憶はある一定の条件を満たせば封印されるもので、一定を満たさなかったものは、忘れ去られるものだ」
 というものであった。
作品名:ふたりでひとり 作家名:森本晃次