ふたりでひとり
これが主題というわけではなく、ラストの方で小説の根幹の種明かしをしているところで、一つのエッセンスとして描いたことだった。隆正は自分の書いた小説をすぐに忘れてしまう。それは自分の中で悪いことだとは思っていない。なぜなら、書き上げた作品をリセットしないと次作を書けないと思っているかrだ。そういう意味で隆正というのは書き上げるのも早いが、次作に取り書かkるスピードも結構速い。それだけに完成作品はかなりの数に上る。
それを本人は、
「質より量で書きまくる」
と笑いながら言っていたが、自他ともにまんざらでもないようだった。
逆に紹運先生は行動と同様、出来上がる作品にもムラがあった。
確かに紹運先生は締め切りに間に合わないことは一度もなく、編集者からも信頼を受けていたが、隆正のように、一つの作品を書きあげてから次作に取り掛かるまではそんなに早くない。どちらかという作品への取り掛かりに関しては気まぐれなところが多く、その気がなければ、簡単に断ったりもする。
このあたりは編集部も少しだけ頭の痛いところであったが、それ以外はまったく問題ないので総合的に見ても、紹運先生は出版社にとってもなくてはならない存在だったのだ。
隆正が自分に自信が持てない理由。それを知っているのは、紹運先生と一部の編集部の人だけだった。
紹運先生が神出鬼没だというのであれば、隆正はその存在自体が不明だと言ってもいい。確定的に知っているのは紹運先生と出版社の一部の人間だけだが、中西の人もウスウス気付いていることだった。だがそれを本人にぶつけて、知られたくないということを突き付けることで臍を曲げられても困るのだ。まったくメリットのないことができるほど、中西はチャレンジャーではなかった。
隆正には過去の記憶がなかった。一種の記憶喪失なのだ。だから中西が、
「自分の経験から書けば」
と言った時、
「集中して書いている」
と、答えになっていない返答をしなければいけなかったりした。
もちろん、それが期待した返答ではなかったが、隆正の本心であることは分かっていたので、無理に否定することもなかった。話を合わせたというよりも、
――もっと先生からいろいろな考えを引き出したい――
という思いが強かった。
聞かれたくないような核心を突く話を振れば、きっと彼がごまかすわけではなく、自分の本心を明かしてくれると思ったからだ。
少し卑怯にも感じられたが、これも中西としてのテクニックであり、それが作品に生かされるのであれば、それも悪いことではないと思った。
「私は山下先生の作品を最初に読んで、何か懐かしいものを感じたんですが、それはどうしてなのかと思うんですが、どうしてなんでしょうね?」
と中西は笑いながら言った。
「私にも分かりませんが、懐かしさというのは、私の小説が自分では経験から書いているわけではないと思っているのに、意外と他の人には何か経験があるということなのか、それとも私の作品が、他の人の作品に類似したものがあるということなのか、どちらにしても私にはありがたいとは思えないことですね」
「でも私の懐かしさというのは、今先生がおっしゃった理由とは違う気がするんです。決して先生にも悪いことではないような感じのですね」
そう言いながら、中西は隆正の著わした小説を思い出していた。
中西が一番気になった小説というのは、
『極限の生還』
という話だった。
内容としては、ある人が自殺を図り、死んでしまうのだが、その人が生き返るという話だったと思う。そのような内容の話であれば、オカルトや怪奇がさらに深まるのだが、中西には却ってその小説に怪奇性を感じさせないように思えたのだ。
その思いがどこから来るのかよく分からなかったが、
――そうか。何か懐かしく感じるから、そこに恐怖や怪奇の感情が沸き起こってこないんだ――
と感じた。
自殺を図った主人公は一度死の世界を覗くことになる。しかし、小説では、
「死の世界を覗いた」
とは書いてあるが、それがどんな世界なのか、具体的には書いていない。
しかし、そんな中で微妙に死の世界を想像させるような書き方があった。
「『想像』することではなく、『創造』することだ」
と、後の方に別の意味で書かれたセリフがあったが、その言葉が妙に頭の中に残った。
その言葉と死の世界と具体的に書いていないことがどのように結びつくというのか、かなり後になって気が付いた。
だが、そのことn気付く人は他にいるわけはないという自負もあったので、最初はこの気持ちを隆正にぶつけてみようかと思ったが、結局聞くのをやめたのだ。
中西も、実は小説家を目指していた。出版関係の仕事についている人は少なからず、自分でも小説家になりたいなどの野心を持っている人多いのではないか。彼もその中の一人で、大学では文芸サークルに所属し、学園祭で上映したオリジナル映画作品の脚本を書いたりもしていた。
「脚本と、小説ではまったく違う」
と言われるが、出版社に入って小説を数多く読むようになって、その言葉を痛感するようになった。
最初に脚本を手掛け、その後自分でも小説を書いてみようと思うようになったが、なかなか思い通りの作品ができなかった。
学生時代はそれをなぜなのか分からなかったが、脚本というのが、演者や監督、さらに演出家とのチームワークによって作り上げるもので、脚本が表に出すぎると、他の味を打ち消してしまうという意識の元に書いていた。
実際に脚本は、ト書きとセリフ、さらにその場面しか書くことができず、描写というのは演出家や縁者が生かすものだった。しかし、小説というのは、自分の書く文章ですべてを表さなければいけない。自由ではあるが難しいことだ。
そういえば、編集者の先輩からこんな話を聞いたことがある。
「どんな話でも自由でいいので、一本小説を書いてくれないか。ただし、映像化が可能なものにしてほしい」
と言われた。
彼は、編集部の中から小説家を目指していると公言していて、それを伝え聞いた当時の編集長から受けた話だった。
「自由でいいというのは簡単なようにきこえるが、実はこれほど難しいものはない。それもジャンルや作法が自由というだけで、映像化という大きな縛りがあったんだ。これだと言い訳は一切利かないし、制限されているのと同じではないか? そう思うと委縮してしまって作品は書けなかったんだ」
と言っていた。
この話を聞いて、彼はその時、
――前にも同じようなことを感じたことがあったな――
ということを思い出した。
そういう意味では小説家というのも、ほとんど自由である。どんな発想をすればいいか、元々の企画くらいは編集部で立てるのだが、具体的なことは作家の自由である。そう思えば、作家がどれほど大変な職業であるかということも分かるというものだ。
――諦めて正解だったのかな?
と中西は思ったが、そう思った時点で、正解だったということだろう。
まるで禅問答のようだが、世の中というのは、そんなものだと思うと、肩の荷が下りたような気もした。