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ふたりでひとり

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 誰が決めるという発想も、そう考えると、ハッキリしてくるわけではない。そもそも決めることなどできるものではないとも思える。それでも導き出されなければいけない正解もある。それはプロセスでいうところの結果を求めなければいけないということからの発想ではないだろうか。
 結果がもたらすもの。それは未来への警鐘である。結果を検証しなければ、今後また同じようなことが起こった時、
「また同じことを繰り返すのか?」
 ということになるからだ。
 結果がすべて正解か不正解なのかと割り切る必要はないだろうが、検証は必要である。もちろん、結果は人それぞれ、パターンによっても変わってくる。すべて検証通りにいくとは限らない。むしろいかない方が多いだろう。だが、何もないよりも絶対にいい。それは誰もが無意識に感じていることであろう。だから結果を求めることで、それが正解を求めることと同化してしまって、正解を欲しがるという風潮を皆が持っているのではないかと思うのだ、
 中西は、今まで、
「自分の作品は自分だけのものだ」
 と思っていた。
 もし、世間に発表することができて、プロと呼ばれるような人になったとしても、そこに対して、読者は言いたいことをいうだろう。相手は素人だという意識もある。もちろん、他のプロの評論家にも作品を酷評されることもあるだろうが、よほどひどいものでなければ、酷評が話題になることもない。
――そんなものは半分聞き流しておけばいいんだ――
 と、思っている。
 だが、それは素人だから感じることであって、プロになってしまうと、酷評が致命傷にならないかという不安が募ってくるだろう。
 素人であれば、自分の中にある小説というものの占める割合は、プロのそれに比べてかなり小さいものであり、そこにのしかかってくる責任やプレッシャーはその比ではないだろう。
 中西は自分の小説を嫌いではない。ただ、何かモヤモヤしたものが残っていた。
「これを他人が書いた小説だと思って読めば、果たして面白いと思うだろうか?」
 と考えた。
 確かに自信を持って胸の張れる作品ではない。プロになろうなどと口にできるはずもない作品だということも分かっていた。
 中西はプロになりたいわけではなかった。ただ書いていければいいだけだったのだが、この時、聖子の作品を見て、自分の作品との違いを思い知らされたと同時に、どこか自分と発想が似ているおとに気付いていた。
 そこで思い切って、
「今度、僕の作品も読んでもらえないかな?」
 と切り出すと、聖子はニッコリと笑って、
「ええ、そういってくださるのを待っていました。ぜひとも読んでみたいですね」
 と言ってくれた。
 その時中西はふと感じたことがあった。
――あれ? ひょっとして彼女が僕に快く作品を見せてくれた理由の中には、僕の作品を読ませてもらえるという思いも含まれていたのではないか?
 という思いであった。
 なるほど、そういうことであれば、恥ずかしがることもなく、二つ返事で小説を読ませてくれると言った彼女の言葉を理解することができる。
 日を開けず、同じ週の週末、待ち合わせて小説を見てもらった。
 最初は、難しい表情を浮かべながら読んでいるように見えたが、それはきっと、中西の作品が彼女の中の想像を許さない部分があったからなのかも知れない。
 自分で小説を書く人は、人の小説を読む時、自分ならどう書くという思いをどこかに抱いているに違いない。それだけに、想像できないことがあると、表情を曇らせるのではないだろうか。
 しかも、小説を書いている人は、書いていない人に比べて、想像の範囲が狭まるのではないかと思っている。なるほど自分で小説を書く時は、まず制限なく発想の幅を広げるであろうが、実際にそれを文章に起こす作業に入ってくると、ぐっと想像の視野を狭めてくる。その癖を持っていることで、他人の小説を読む時は、最初から狭まった想像力を持ち合わせてしまう。
 だから逆に自分の想像とピッタリ合った小説であれば、引き込まれてしまうほどの内容にグッとくるものを感じるのではないだろうか。
 そう思うと、小説評論家の先生たちの評論も分からなくもない。べた褒めするか、逆にコケおろすような酷評をするかの両極端である。それも想像という視野を狭めて見るという発想に立ってみれば分かることであった。
 聖子の表情はまさにそれであり、彼女の中の想像の範囲外だったということだろうか。もしそうであったとしても、彼女に小説を書く素質があるということなので、プロの目だいうことになるのではないかと思えた、
 そう思って彼女の様子を診ていると、今度は怪訝な表情から急に真剣な表情に変わった。それが引き込まれているからなのか、それとも、理解できないことを必死に理解しようとしていることなのか、微妙に分からなかった。後で聞いたところによると、
「そのどちらでもある」
 ということであった。
「なかなか面白い作品だって思うわ。途中までは言葉の意味がよく分からずに、理解するのに困難を要したんだけど、途中から何か自分が引き込まれるのを感じたの。でもその中で、『私だったらこう書くのにな』と思うようなことがあったりして、勝手にストーリーを自分の中で着色して見ていたの。それって、結構無理のあることで、自分の気持ちを小説の中の登場人物に当て嵌めなければいけないのよ。私は本を読む時、そういう読み方をよくするんだけど、これってかなり疲れるものなのよね」
 と言っていた。
 中西の想像していた内容と、ほぼ同じことであったが、中西には、人の小説を読むのに、どうしてそこまでしなければならないのかということに対して、どうしても納得できなかった。
 彼女は続けた。
「小説を書くことと読むこと。私は最初、読むことの方が簡単だって思っていたんだけど、最近になって、書く方が楽に感じられるようになったんだけど、これって、書くことに関しては自由だという発想からなのかしらね?」
 と聞いてきたので、
「そうでもないと思うよ。確かに書き方は自由だと思うけど、それはあくまでも誰にも読んでもらわず自分だけの世界にとどめておく場合でしょう? 人に読まれるとそこで勝手な発想が生まれる。勝手に書いているとすれば、見る人が見れば分かるんじゃないかな? そうなった時、酷評される可能性は高いと思うんだ」
 というと、
「確かに人に読まれるという場合を考えればそうなんだけど、自分だけにとどめておく場合だって、自分の作品に対して、自分なりに評価するでしょう? その時、自分は勝手に書いたということを分かっているんだから、作者から読者になった時点で、作者としての自分を許せなくなる部分もあると思うの。だから、誰か他人が読む読まないは関係ないんじゃないかしら?」
 確かに彼女のいう通りだ。
「やっぱり、書く時に感じる『自由』という発想が、書くということに対して大いに発想を制限するだけの何かの力を持っているのかも知れないっていう気がするんだ」
 中西はそういうと、少し考えてみた。
作品名:ふたりでひとり 作家名:森本晃次