ふたりでひとり
だが、ちひろという女の子は、そんな中西を嫌いになることはなく、中西も自分がちひろに対して傲慢で失礼なことをしているということにウスウス気付くようになったことで、彼女から少し距離を置こうと思っていた。
お互いにぎこちなくなってしまっては、せっかくの関係が冷めてしまうと思ったのだった。
それを、ちひろの方から中西が離れようとするのを、まるで紐で括ったかのように放そうとしない。中西はそんな彼女に、
――どうして?
と感じていた。
「私、中西さんといると、癒される気がするの。最初は自分がこの人を癒してあげたいって、思っていたんだけど、それって仕事の時の気持ちでしょう? でも、一緒にいて何か少しずつ気持ちが違ってきたのを感じると、そこに自分が癒されているということに気付いて、そうなると、この人と離れたくないという思いがどんどん強くなってきたのよ。だから、あなたが私から放れようなんて思う必要はないの。あなたが私をいらないって言わない限り、私はあなたと一緒にいたいと思っているのよ」
と、言ってくれた。
それから二人は付き合うようになった。お店を離れて会うことが多くなり、中西は少し冷静になった。
――風俗嬢の彼女って、どう考えればいいんだろう?
想像もしていなかったことだっただけに、この展開に嬉しい気持ちがある反面、自分の気持ちが本当に正直に前を向いているのか、よく分からなかった。
――確かにお店に行かなくても彼女を抱くことはできるのだが、彼女はその分、他の男に抱かれている。しかもお金が絡んできて……。
などと思っていると、冷めてくる自分を感じた。
だが、その冷めてくるというのは、風俗嬢を相手にしていた自分に気が付いたからであり、ちひろという女性に対して冷めた感覚を持ったわけではない。
したがって、ちひろと別れようなどという気持ちが起こるわけもなく、逆に他の男性をよく見ているちひろから嫌われたくないという気持ちが働いたのだ。
だが、不安がないわけでもない。自分が少なくとも、
「冷めた」
と感じていることをちひろが悟ったとすればどうだろう?
――この人、私に対して冷めた気持ちになっているのかも知れない――
とでも思われて、上から目線でも何でもないのに、
「上から見られている」
などと勘違いされるのではないかというのが怖かったのだ。
だが、ちひろに対してそんな心配はなかった。ちひろは付き合い始めてから、それまでまったく中西のことを何も聞いてこなかったのに、一緒にいるようになってから、結構根掘り葉掘り聞くようになってきた。
他の人だったら。
「少し鬱陶しいよな」
と感じるのだろうが、中西は嬉しかった。
嫌いになられていないという何よりの証拠であり、言えることはすべて言いたいと思っていた。
元々、お店での会話も、あまり隠すところはなく、正直に話していた。ただ、自分の気持ちに関わる部分から内側は、覗かせないようにしていたのは間違いないことだった。
お店では自分が文芸サークルに入っていること。脚本を書いて、そして発表するに至ったこと、そして、それに満足していることくらいは話した。
それを聞いてちひろも、
「それはすごいですね」
と言ってくれたが、それは客に対してのおべんちゃらだったのかも知れないが、それでも客としては嬉しかった。
「私ね。中学の頃から小説を書くのが好きで、よく書いていたんです。他の勉強にはまったく何も興味を持っていなかったんだけど、それなりの成績を取れたのは、小説を書くことで、そのネタを収拾するのにいろいろ勉強したからなのかも知れないって思うんです」
「それはそうかも知れないね」
「もちろん、小説のネタになるような情報って、テストに出るようなものばかりというわけではないわ。むしろ、学校で教えてくれないようなことに興味を持って調べるというのが本音のところなんだけど、勉強することが苦にならなくなったという意味では、情報収集というのはいいことなのかも知れないわ」
ちひろの表情は生き生きとしていた。
――これが彼女の本当の顔なのだろう――
と中西は思った。
「一度、その小説というのを見たいものだね」
「ええ、赤西さんになら見てもらいたいと思うわ」
これが、店外で会うきっかけになった。
本当は、こういう店では店外デートというのは禁止されているのだろうが、同じ首位を持った同士が趣味について語り合う、それだけのことではないか。さすがにお店の近くというわけにも行かず、ちひろが在籍している大学の近くにした。その方がいいと言い出したのはちひろの方だった。
「大学のお友達には、私のお兄ちゃんか何かに思われるでしょうし、もし万が一お店関係の人が見ていたとしても、大学の知り合いと思われるから、その方が絶対にいいと思うのよ」
さすがに頭のいい娘だ。
「なるほど、コウモリの発想だね」
というと、
「そうでしょう。私も名案だと思うのよ。獣に遭えば鳥だといい、鳥に遭えば獣だっていうあのコウモリよね」
「うん、でもそれは逃げ回っているわけではなく、まわりの目を欺くことで自分が成長することにもなるわけだから、一般的に言われているコウモリとは違うんじゃないかって思うよ」
「そう思ってくれると嬉しいわ」
そう言って、二人はちひろの大学の近くで待ち合わせをした。
その時になって、やっとちひろは本名を教えてくれた。
「私は沢村聖子っていうの。聖母マリア様の聖と、子供の子って書くのよ」
そう言って笑う聖子は、まさに女子大生の顔だった。
さっそく持ってきてもらった小説を拝見させてもらったが、中西は小説を読み進むにつれて、自分がどんどん彼女の世界に引き込まれていくのを感じた。彼女の小説は明らかにホラー、恐怖小説である。ドロドロした部分は、中西には描くことのできない部分であり、自分では毛嫌いしているところだと思っていたが、実際に読んでみると引き込まれてしまっている自分に戸惑いを感じている。
だが、根幹としては、中西の書こうとしている小説と似ていた。
「無理だと思うけど、僕と共作なんてことをすれば、面白いカモ知れないね」
と言った。
その時の聖子は、一瞬怪訝な表情を浮かべたが、その気持ちも分からなくはない。小説というのは、もちろん、フィクションに限定されるが、自分の発想がすべてだと思っている。その分自由は自由であり、逆にそこが難しいともいえる。何が正解なのか、分からないからだ。
――正解というのは、誰が何に対して決めることなんだろう?
中西は、たまにそのことを考えることがあった。
「何に対して」
というのは、ハッキリしているように思う。
つまり、それがハッキリと決まらないと答えが求まらないからで、もっとも最初から問題提起もされないのではないかと思えることだ。
だが、中西がそこまで考えるのは、自分の中で正解というものへの信憑性が疑念でしかないという思いに立っているからではないだろうか。