ふたりでひとり
と、完全に日の目を見ることのない状況を、自分のことでありながら、どこか気の毒に思うのは、どこか矛盾しているような気がしているが、そもそも日の目を見ないこと自体が矛盾になるので、それも無理のないことのように思えた。
中西はそのまま気難しい隆正の相手をするようになったのは、辞職することで再就職への恐怖を感じたからではなかった。確かに気難しい人を相手にするのは苦痛だったのだが、次第に、
「この人から何かを学べそうな気がする」
という思いがあったからだ。
いくらプロの作家を諦め、趣味で行こうと思ったとはいえ、学べるところが多いというのはありがたいことだった。
しかも、中西という人間は、実は営業には向いていなかった。
なぜなら、
「自分が縁の下の力持ちでは我慢できない性格だ」
ということを分かっているような気がした。
「自分は他人と同じでは嫌だ」
というのは、自分が人より劣っていると思いたくないからで、これは、
「まわりが自分よりも優れている」
という土台があるからこそ、そう感じるものだった。
この考えは、隆正の裏の性格と同じではないか。表ではわがままなくせに、実際にはまわりが皆自分よりも優れていると思う感覚。中西がまわりから聞いていなくてもすぐに分かっただろうと思った理由は、ここにあった。
中西はまわりが自分よりも優れているという考えを持っていることに気付いたのは、もっと小さかった頃からだった。自分について考えるようになった最初の頃から感じていたのではないかと思う。
その意識をずっと持ってはいたが、そのほとんどは無意識だっただろう。
「何かあった時、その感覚が顔を出すんだ」
ということに気が付いたのは、隆正を知ってからだったと思う。
最初こそこの性格は自分だけではなく、他の人も普通に持っているものだと思っていた。しかし、まわりを見る限りそんな素振りを示す人はどこにもいない。ただ口では、
「自分よりまわりの人は皆優れているからな」
という人がいるが、そんな人ほど、
――心にもないことを――
と感じさせることはなかった。
それだけ虚偽に満ちた態度であり、余計に自分の気持ちを隠したいという意識の表れではないかと思うようになっていた。
隆正を見ていて、大きな共通点を発見はしたが、それ以外のところで共鳴できるところは見当たらない。それでも彼に対して興味が次第に深くなっていくのを感じたのは、ひょっとすると、共通点が少ないことが影響しているのかも知れない。
山下隆正という作家は、普段はまったくの無口である。今までに何か会話をしたという記憶のある人はほとんどいないと聞いている。今までの担当者にも言えることで、
「どんな声をしていたのか、それどころか顔すら忘れてしまっているよ」
と笑いながら話している人もいる。
顔を忘れたと言っていながら、そこに悪びれた様子がないのは、顔を忘れたことが悪いことではなく、忘れさせるような原因は相手にあると感じているからなのかも知れない。
「だけど、先生から離れてせいせいしているというわけでもないんだよ」
という人もいた。
「どういうことですか?」
「先生から学ぶこともあったと思うし、先生と一緒にいたから、他の先生とも相手ができる気がするんだ。確かに山下先生がひどかったので、他の先生にも耐えられるという気持ちもあるんだけど、どうもそれだけではないと思うんだ」
と言っている。
「それはどんなところですか?」
「具体的には何もないんだけど、何というか、一足す一が二にも三にもなるというか、あの人には答えがないように思うんだ」
「答えがない?」
「ああ、答えがないということは、答えを求めてはいけないということになる。求めなければ見えてくるものもあるというもので、それが先生が与えてくれているものなのかどうかは分からないんだけど、何となく先生に共感できるところも生まれてくる気がするんだ」
と言っていた。
「共感ですか?」
「きっとお前にも分かる日が来ると思うけどね」
という話を聞いて隆正にもう少しついてみようと思ったのも事実だった。
――自分にとって理解できない部分が多いのは、相手を理解しようとしないからだ――
とよく言われるが、果たしてそうだろうか?
この言葉はどこか杓子定規の教科書に載っている言葉のような気がして、それをそのまま鵜呑みにすることができないのは、やはり
「自分は他の人と同じでは嫌だ」
というところから来ているのかも知れない。
他の人と同じという言葉の意味は、性格という意味なのか、考え方という意味なのか、どっちなのだろう
考え方というのは、いくらでも変えることができるだろうが、性格というのは、そう簡単に変えることはできないだろう。
「性格というものには、持って生まれたものと、育ってきた環境に育まれたものもある」
と言われている。
持って生まれたものは、変えることはできないと思うが、育ってきた環境に育まれたものは、変えることはできるのではないか。
「育ってきた環境による性格は、その人の気持ち一つで変えることができるのではないか?」
と言われているのを聞いたことがあったが、中西には、そんなに簡単なものには思えなかった。
人によって自分の性格を変えることができると思っていると思うが、もし変えることができたとすれば、元々持っていて隠れていた性格が表に出ただけなのかも知れない。
「ジキル博士とハイド氏」
という小説があったが、これは二重人格を書いた小説で、二重人格というのを、まったく対照的で両極端な性格を模写した話であった。
躁鬱症と、この二重人格とでは性質が違っている。躁鬱症は一人の人間が一つの意識の中で行うことであり、「ジキルとハイド」のような二重人格は、一人の人間の中に二つの意識が存在しているということを意味しているのではないだろうか。躁鬱症の場合は躁状態の時、鬱状態の自分を意識することができるし、鬱状態の時、躁状態の自分を意識することができる。
何を考えていたのかまではハッキリと分からないかも知れないが、意識としてはできるのに反し、「ジキルとハイド」的な二重人格では、ジキル博士が表に出ていると、ハイド氏は完全に隠れてしまっていて、ハイド氏が表に出ている時はジキル博士は表に出てくることはない。
つまり、眠ってしまっている状態なのか、ハイド氏が人からジキル博士の話を聞いてもまったく他人事であるし、逆も同じことだった。まったく意識の中にそれぞれがいることはない。
これはまるでどんでん返しに似ている。歌舞伎などの舞台で、反転するとまったく違う舞台装置が表に出てくる仕掛けである。
中西は自分の性格を二重人格だと思っているが、それは「ジキルとハイド」的な性格ではないと思っている。そもそも二重人格という自覚があるということは、一人の性格を持っている時、もう一人の性格を意識できているということなので、それだけでも「ジキルとハイド」的な二重人格とは違うのだ。
では、果たして二重人格という表現はどちらにふさわしいのだろうか?