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ふたりでひとり

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 最後の望みだけは残すくらいのつもりで、なくなっていく欲望は諦めつつも、意欲だけは失わないようにしようと思っていた。意欲がなくなると他のことにも影響してきて、生活のリズムが崩壊してしまうような気がしたからだ。
 生活のリズムを形成するのは、自分の中にある意欲ではないかと中西は思っていた。他の人とは考え方としては違うかも知れないが、最終的にポジティブな発想であるというところは共通していると思うので、同じなのだろう。
 意欲がなくなってくると、生活のバランスが崩れてくる。毎日規則正しい生活をしている人にはもちろんのこと。不規則な生活であっても、慣れてくると、その人なりの規則に基づいて生活しているに違いない。バランづさえ整っていれば、他人から見て不規則に見えることでも実際には規則正しかったりするのではないかと中西は思っている。
 意欲さえ失わなければ、趣味としてであっても、小説を書き続けることができる。むしろ趣味だと思うことの方が気楽にできるというもので、気楽な方が筆が進むことだってあるようだ。
 出版社に入社して、三か月研修期間があり、そしてその後に担当の作家に着くことになったのだが、いきなりついた相手が隆正だったのだが、彼は編集者泣かせとも言われるほど偏屈な性格だった。
 わがままなところがあり、そのくせ、まわりの人が自分よりも優れていると思い込んでいる。謙虚というわけではないのだろうが、そのせいで、小説を書けるようになり、先生と呼ばれるようになったことに天狗になっているふしがある。そのことは編集者共通の意見であり、中西もその話を聞いていなかったとしても、すぐに気が付いただろうと思うほど分かりやすい性格であった。
 だが、分かりやすい性格だということほど単純なこともない。嫌われるようなことさえしなければいいだけで、ある意味おだてておけば勝手に木に登ってくれるような人だったのだ。
 編集者というのは、作家と二人三脚だと思っていたが、人によっては縁の下の力持ちに甘んじなければいけない相手もいる。不公平な気もするが、それは編集者に限ったことではなく、営業職の誰でもが感じていることである。
 営業の相手にはいろいろな人がいて、わがままが過ぎる人もいる。何をさせられるか分からないと日々ビクビクしながら、懐に辞表を忍ばせながら仕事をしている人もいるだろう。
「上司の机の上に、ドンと辞表を叩きつけて、啖呵と切って辞めることができれば、どれほど爽快なことだろうか」
 誰もが思っていることかも知れない。
 中西もその一人であった。
 さすがに懐に辞表を忍ばせてもいないし、啖呵を切るだけの勇気があるわけでもないが、
「いつまで我慢できるだろうか」
 と思いながら仕事をしている日々が続いた。
 しかし、世の中にはそんな状況を乗り越えて頑張っている人はごまんといる。いくつか原因はあるだろうが、要するに慣れてきたのだ。
 要するに、
「画面の限界に達するのが早いか、それとも慣れてくるのが早いか」
 というだけのことである。
 慣れというのは、別に惰性でも構わないと思っている。惰性であっても我慢を凌駕できるのであれば、それに越したことはない。なぜなら慣れてきたことで、少しは気持ちに余裕が持てるからだ。
 我慢しなければいけない状態であると、どんどん自分に余裕をなくしてしまっている。余裕がなくなると、最終的には我慢できなくなり、次のステップに進まないとどうしようもなくなる。
 辞めるかどうかの選択はそこから生まれるのだ。
 辞めようと思った時、ほとんどの人は、
「自分が悪いんじゃない」
 と思うことだろう。
 辞めるという決断をした時、その正当性を求めるからだ。
 辞めるという行為は、自分に余裕がなくなって、精神的に我慢できなくなったからに相違ない。つまりは、それだけの理由では自分への正当性は考えられない。
 辞める原因が営業先の相手や上司であれば、相手を悪いということにしてしまえば、そこに正当性は生れる。
「相手が悪いんだから、自分が悪いわけはない」
 という思いがさらに拍車をかける。
 普段であれば、
「相手が悪いからと言って、自分が悪くないとは限らない」
 と気付くのだろうが、辞めようと決断している場合は、そんな理屈は通用しない。
 何しろ辞めることに対しての行為よりも強い正当性を求めなければいけないからだ。
 なぜなら辞めた後のことを考える必要があるからだ。
 辞めた後、新しく仕事を探さなければならない。辞めてすぐくらいは、ゆっくりしていたいと思ったり、せいせいする気分から気が抜けてしまっているだろうが、ふと我に返ると、そこに残っているものは何もないのだ。
 まったく何もないところから新たに職を探す。これには想像以上にエネルギーを使うに違いない。
 新卒での就職活動は、まわりが皆就活ムードの中で行われたので、いろいろ相談できたり、情報交換などができたのだが、たった一人放り出された状況になったそこから新たに職を探すのは、きっと至難の業だろう。
 特に一人となることは想像以上に孤独を味わうことになると思ったからで、錯覚に違いないと普段では感じることも、錯覚だとは思えないような精神状態に追い込まれると思っていた。
 これは、躁鬱状態を繰り返している時の鬱状態とは少し違う。躁鬱状態で陥る鬱状態というのは、あくまでも虚空の鬱状態であり、具体的に自分をどのような苦痛が押し寄せてくるのか、想像することもできないような状態で、それは妄想という意味でもっと苦しいものなのかも知れない。
 妄想の中において、鬱状態に入り込んでしまうと、それまで何も感じなかったことすべてを不安に感じる。この不安が妄想であり、鬱状態独特のものとなる。
 普段の不安な精神状態というのは、
「何に不安なのか分からない」
 とは思っても具体的ではないので、次第に忘れていくものである。
 錯覚と感じるかも知れない。
 だが、鬱状態に感じる不安というのは、確かに具体的に何が不安なのか分からないのだが、不安な時間を長く過ごしていれば、それまでなかったものが形作られてくる気がする。
 どんな形になっているのかは、その時々で違っているのではないかと思ったが、繰り返す躁鬱状態の中では、いつも同じなのではないかと思うようになった。だから、
「躁鬱状態というのは繰り返すのではないか」
 と思っている。
 中西の躁鬱状態のピークは中学時代であった。そう、ちょうど思春期の時期と重なっていたと言ってもいい。だから中西の中で、
「自分の思春期は、言葉で言い表すことができない」
 と思っていた。
 何をどう表現すればいいのか分からないと思っているのは、記憶が曖昧だというのもあるが、記憶を曖昧にした理由について心当たりがあるからなのかも知れない。心当たりがあるからと言って、これを口にするのはタブーだと思っていて、口にしてしまうと、せっかく記憶の中に封印している思いを自らで打ち消してしまうように思うからだ。
「せっかく記憶を意識することができるのに、口に出すことができないなんて」
作品名:ふたりでひとり 作家名:森本晃次