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ふたりでひとり

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 バランスというのは、例えば海岸の絵などに感じることであるが、下の方には海岸という陸があり、さらに中心部には陸との境目から水平線までの海が広がっている。さらにその上には空があるのは当たり前のことだ。そこに沈む夕日であったり、昇る朝日などがあれば、絵が映えるのは必然と言えるだろう。
 またバランスによって、生まれる相乗効果として、
「絵のどの部分に最初に目が行くか?」
 ということも重要である。
 バランス感覚がどこに目を向けるかを決定づけていると言ってもいいかも知れない。そういう意味での、
「最初にどの部分に筆を落とすか」
 という発想が重要になってくるのであろう。
 また遠近感というのも、実はバランスと微妙なところで重要に結びついてくるような気がしている。
 海岸を模写した絵であったとしても、そこにはバランスと遠近感が重要である。下から上に向かって、近くから遠くになっているというのが、絵を見ただけで分かってくる。それは誰もが普段見る感覚が養われているからであって、無意識であっても、感じることである。
 では、もし逆さまにして絵を見た場合はどうであろうか?
 天橋立でもないのだから、股の間から見るように逆さになって見ていたら、どこに遠近感を持って行っていいか困ってしまう。普段から無意識のうちに、
「下から上にだんだん遠くなっていく」
 という感覚が身についているとすれば、バランス感覚はまったく崩壊しているに違いない。
 まったくの逆さまから見ると、空がやたらに広く感じられ、陸や海はちょっとしかないように思うことだろう。上下逆さまに見て、まったく違った錯覚を感じるという「サッチャー錯視」という言葉があるが、まさにそのことなのかも知れない。
 それは、自分の目線の中心をどこに置いていいか分からないということであり、中心を見つけることは、バランス感覚にしても遠近感にしても、絵を見るうえで重要なものを見失ってしまい、そこに残るのは錯視しかないということになるであろう。
――まさか、そこまで考えてしまっていることで、自分には絵など描けないという発想に至ってしまった理由ではないだろうか?
 と考えるのは、考えすぎかも知れないと思った。
 小説を書くというのも、絵画を描くという感覚に似ているのかも知れない。
 絵のようにハッキリとしたビジュアルを、一枚のキャンバスで表現するものではないが、バランスや遠近感というものを、言葉で表現しなければならない。
 バランスや遠近感に変わるものとして、相手に抱かせる想像力であったりするのだろう。その中で時系列や登場人物の性格などをいかに読者に分からせるか。それは抽象的な言葉になればなるほど、想像力を掻き立てることができる。逆に言えば、リアルな表現とのバランスが、絵におけるバランスと違って描かれなければいけないものとして意識する必要があるであろう。
 読者は、作者の目論んだ世界に入り込み、そこで無意識に感じることで、想像力を掻き立てられる。
 それは無意識でなければならず。本当は意識しているものなのだろうが、作者によって導かれるマインドコントロールと言ってもいいかも知れない。作者の目論見と読者の想像が一致しなければ、読んでいても楽しくはないだろう。逆に一致してしまうと、読者は小説世界の中に引き込まれ、感覚がマヒしてしまったかのように、時間を感じることもなく、ただ前に向かって進むだけであった。
 そういう意味でも小説の中の時系列は必要になってくる。
 小説の中には、時系列を無視したような作品もある。回想シーンなどをふんだんに用いた作品もあるが、それも時系列を無視した作品というわけではなく、
「時系列をハッキリさせるために、わざと回想シーンを入れる」
 という、一種の小説における作法のようなものではないだろうか。
 遠近感というのは、この時系列は影響している。
「下から上に向かって、どんどん遠くなってきている」
 という発想は、まさに時系列と示しているのではないだろうか。
 ただ絵画と違うのは、時系列さえ間違っていなければ、
「逆さまでも錯覚をすることはない」
 ということである。
 その解釈として一つ言えることは、
「小説には、絵画のような根幹としてのバランスというのはない」
 ということである。
 小説においても、それぞれの節を持っていて、バランスは重要なものである。例えば小説を書く上でプロット作成の際には不可欠である、
「起承転結」
 という発想もまさにそこから来ているのではないだろうか。
 小説を絵画、広い意味ではどちらも芸術の端くれである。そう思うと、この二つは一種の、
「交わることのない平行線」
 という発想に似ているような気がする。
 しかも、それぞれにニアミスであるということが分かっていて、決して相手のことが見えていないわけではない。
「光を発しない天体」
 という発想にはなりえないということである。
 もう一つ気になったのは、絵画に対して感じた、
「減算法」
 である。
 これは、偶然ではあったが、今まで必要以上なことを考えたことのない絵画に対して、小説に感じたことと同じ発想をしてしまったということを、本当に偶然として片づけていいものなのかどうかということである。
 それぞれを、
「交わることのない平行線」
 と感じているのに、共通点には事欠かない状態。
 それを思うと、絵画も小説も自分の中で共通な感覚で見ていいものなのかも知れないと感じた。
 他の人は意外と同じような感覚で見ているのかも知れない。だた、そのどちらにも興味が薄い人が感じていることだろう。
 その対象である二つに対して少々距離があるほど、その対象が近くに見えるものである。これは錯覚でも何でもなく、本能も感じていることだ。
「錯覚であっても、本能が感じていることであれば、それは錯覚として捉えられているものではないのではないか?」
 この考えは、冷静に考えれば当たり喘のことだ。
 錯覚というのは、錯覚だと思うから初めて錯覚になるのであって、錯覚ではないと思っていれば、それはスルーされる感覚であってしかるべきである。
 これにも個人差があるから難しいのだが、人によって違う感覚であれば、それをどこまで錯覚として認識すればいいのか難しい。
 錯覚でない部分は、いくら交わることのない平行線だと思っていても、そこには結界のようなものは存在しない。ただ、向こうが見えているが、想像以上に遠いところにあるというのが本質なのかも知れない。
 絵画にしても、小説にしても、シナリオにしても、芸術には自分が想像もしていなかったところに共通点があり、無意識ではありながら、その存在を尊重しようとするものがあるのかも知れない。それを本能というのではないだろうか。
 小説を書くようになってから、いろいろな新人賞に応募したが、ことごとく一次審査すら通らない。気持ちの上では、
「まだまだこれからだ」
 という思いはあるが、年齢を重ねていくと、リアルに考える気持ちが放射状に広がっていく。
作品名:ふたりでひとり 作家名:森本晃次