ふたりでひとり
そのせいもあり、一度一か月に一度のペースを開けていたことがあった。最初に行ってから五回目くらいのことだっただろうか。いつもであれば行きたくて仕方が亡くなる感覚を一度抑えてしまうと、行かなくてもいい感覚になった。
その頃には、最初彼女と会うのが身体目的ではないという自覚があったにも関わらず、途中から、
「やっぱり身体目的だったんだ」
という思いが自慰的な目的であったことに気付くと、一人でもできるのではないかと思うことで、急にお金がもったいなくなってしまった時が一瞬だったがあった。
誰にでも、ある感覚であるが、誰にでもあると思ったことで、感覚が冷めてきたのかも知れない。
「僕は人と同じでは嫌だ」
という感覚をずっと前から持っていたので、誰にでもある感覚という意識を持ったことが身体を拒否するに値する考えになったのかも知れない。
このような感覚を複雑に感じてくると、何から最初に思い立ったのかということが分からなくなり、頭の中が整理できなくなってしまう。
「整理整頓はできない」
と思っていた。
それは、
「モノを捨てられない」
という性格にあるからだった。
急にどうしてそんな罪悪感に似たものを感じたのか、それは捨てられないものを自分の中に抱えていたからなのかも知れない。
大学でシナリオを書いている時は、思ったよりもスムーズに書けたような気がする。小説などは本でしか読んだことがなかったので、初めてシナリオというものを見た時、
――何だ、これは?
と正直感じた。
あまりにもアッサリとしていて、そこに温かみが感じられなかった。淡々と描写を繰り返しているだけで、その中に頂上人物のセリフが書かれているだけである。
――こんなもので、どうやって何を表現しようというのか?
と考えたが、シナリオが小説と違うのは、一つの話を表現するのに、シナリオがすべてではなく、監督、演者、構成など、他に様々な人が関わっているということであった。
考えてみれば当たり前のことなのだが、小説しか読んだことのなかった中西にはよく分からなかった。
もっとも、小説を書こうとしてもなかなかうまく表現できない中西にとってシナリオというのは、ちょうどよかったのかも知れない。
「僕が思うに、シナリオというのは加算法で、小説の方は減算法なんじゃないかって思うんだ」
編集者に入社して何年かして後輩に小説とシナリオの違いについて聞かれたことがあったが、その時中西はほとんど宇余計なことを考えることもなく、そう答えた。
「どういうことなんですか?」
「一つの物語を表現しようとすると、シナリオの場合は脚本だけではなく、それを演じる縁者、そしてコンダクターというべき監督がそれぞれ自分の役割を持ってやっているだろう? だから脚本があまり詳しすぎるのはいけないんだ。なぜなら縁者や監督の個性を殺してしまう可能性があるからね。だけど、企画、構成が出来上がれば、まず着手するのはシナリオになるんだよ。シナリオができていないと縁者も監督も何もできないからね。それに比べて小説というのは、演者や監督はいない。作家がそのすべてを自分の言葉で表現することになるんだよ」
という中西に対して、
「それがどうして、シナリオが加算法で、小説が減算法だって思われることに繋がってくるんですか?」
と聞いてきた。
「シナリオはさっきも言った方に、一から作るものなんだけど、出しゃばってはいけない。でも小説はすべてのことを自分でしなければいけないので、まず小説の発想を抱けば、それを自分で想像するだろう? 想像したことを百としたならば、そこからどんどん添削していって、余分なものを削っていくことになる。そういう意味での減産なんだ。シナリオは逆に百から減らしていけば、そこまで減らせばいいか難しい、つまり一から作り上げる方が手っ取り早いという考えになるかな?」
「なるほど、そういうことですね。じゃあ、中石さんはどっちが好みなんですか?」
「僕の場合は、本当は小説を書いてみたいと思っているんだ、シナリオは学生時代に書いたことがあって、でも、その時は何か不完全燃焼が残ってしまって、ストレスがたまった気がしたよ。それはすべてを自分でできないという思いがあったからなのかも知れないけど、もしその時、加算法を意識していれば、もう少し違ったかも知れない」
「どういうことですか?」
「僕は何もないところから一から何かを作ることがやりたいんだ。シナリオもそうだし、小説もそうなんだ。さっき小説が減算法だって言ったけど、それは一から作るという発想とは少し違うと今は思っているんだ。しかも僕の場合は、減算法よりも断然加算法の方を意識している。だから本当は小説を書けるようになりたいと思っているくせに、減算法を意識してしまったから、今もって書けないんじゃないかって思っているんだよ」
「それは、自分の中に矛盾を抱えているということでしょうか?」
「そうですね。一言でいえばそういうことになるかも知れませんね。でも、そんな単純なことでもないような気がするんですよ」
「というと?」
「僕は、実をいうと整理整頓がうまくできない性格だと思っているので、そのあたりが影響しているのではないかと思うんだ」
中西は整理整頓が下手だということは、編集部内では周知のことだった。
皆感じてはいるが、さすがに本人に指摘する人はいない。上司の一人は、
「彼は自分で意識もしていてなかなかうまく行かないようなので、そんな相手に助言をいくらしても同じだよ。相手から相談されれば話は別だけどね」
と言っていた。
「整理整頓をできないということは、モノを捨てられないということになる。逆にモノが捨てられないから整理整頓もできないんだけどね」
と、中西のことをそう話していたのを、その後輩は聞いていた。
「モノを捨てられないということなんですね?」
彼は上司から聞いた話を思い出しながら、そう中西に言った。
「そうだね。モノが捨てられないということは、減算法には向かないということになる。何を捨てていいのか分からないからね」
後輩も中西の言葉に共感できるところがあった。
彼も中西ほどではないが、自分もモノをなかなか捨てられない性格だと思っていたからだ。
モノを捨てられないということは、
「まだ使えるものがあったとして、今後自分がそれを使うかどうか分からないので、捨ててしまって後で後悔するのがいやだということになる」
と思っていた。
モノを捨てられないということは、
「後で後悔したくない」
ということに繋がるというのは、中西も感じていた。
一番強く感じていることだと言ってもいい。
これを単純に、
「決断力がない」
という言葉で片づけられるものであろうか?
中西は小学生の頃、親から受けた躾の中で、
「モノを大切にする」
ということを徹底的に叩き込まれた。
どうやら、親も自分の親から同じように躾けられ、親も中西と同じように反発したようだったが、今では整理整頓もできるようになり、モノを捨てることも人並みにできるようになった。
「きっかけがあるんだよ」