ふたりでひとり
都合よく考えすぎなのかも知れないが、自己嫌悪に対しての考え方がネガティブすぎるという意味で、ちょうどいい中和剤なのかも知れない。
さらに自己嫌悪を感じることで陥る鬱状態も、本当は必ず抜ける日が来るのであるが、その抜け方が普段の躁鬱状態を繰り返している時に感じる、
「トンネルの中のような感覚」
ではないからではないか。
そう思うと、躁鬱症を繰り返している時に感じる鬱状態の中での、塵や埃が光って見えるというチンダル現象の中での気だるさも感じていないのではないかという思いもしてくるのだった。
だから、鬱状態に陥ると言っても、躁鬱状態を繰り返している時に感じる鬱状態とでは似ている状態であっても、明らかに違っていると思える。それこそ、
「まるで他人事だ」
というイメージで捉えることで、意識はしても、記憶として残っていないと言えるのではないだろうか。
それでもどんな鬱状態なのか、勝手に想像することはできる。
普段の鬱状態では、
「何をやってもうまくいかない」
あるいは、
「普段なら楽しいと思うことであっても、すべてに億劫さを感じ、嫌いになってしまう」
そして、そんなすべてを嫌いになる自分を、さらに第三者の目で見て、嫌悪するのだった。
――これこそ、自己嫌悪ではないか?
と思う。
つまりは、躁鬱状態を繰り返している時の鬱状態では、
「鬱状態になることで自己嫌悪を感じる」
というものであるが、憔悴感と罪悪感の間に存在しているであろう自己嫌悪は、
「自己嫌悪によって鬱状態がもたらされる」
という意味で、順番が逆なのである。
だから、普段よく分かっている鬱状態とは違う、
「未知の世界」
としての鬱状態は恐ろしくて仕方のない感覚になる。
その思いが、中西を、
「これ以上、恐ろしい感情はない」
と思わせ、感覚をマヒさせるようなイメージで、記憶が残らないように意識が操作しているのかも知れない。
それこそ、夢の世界のような感覚だと言ってもいいかも知れない。
夢も目が覚めるにしたがって忘れていくものであるが、夢の場合は楽しかった夢を忘れてしまうというのだから、少し違うのかも知れないが、あくまでも夢というのは自分の中で違う次元の感覚である。そういう意味では自己嫌悪というのとは違っている。あくまでも自己嫌悪は現実の感覚であり、次元が違っているわけではない。
もっとも、次元が違っていると思うのであれば、最初から自己嫌悪は罪悪感の一環として考えてもいいのではないだろうか。罪悪感は自己嫌悪の派生型のようだが、実際にはまったく違うものに思える。だから、憔悴感からいきなり罪悪感に陥ったとしても、意識して再度考え直してしまわなければ、自己嫌悪がなかったことを不思議に思わないのだから無理もないことであろうか。
自己嫌悪から陥った鬱状態、その時にチンダル現象は感じないような気がした。お店から出てきてから、最初の憔悴感、そして次に襲ってくると思われていた罪悪感の間に、それほど時間が掛かっていないからだ。途中に自己嫌悪があって、そこから鬱状態に陥るとしても、鬱状態が自己嫌悪の間だけあるものだとすれば、本当に短いものでなければならないだろう。
だが、本当にそんなに鬱状態というのは短いものなのだろうか?
そう思うと、
「罪悪感を感じ始めてから、完全に鬱状態が抜けてしまっていると考えるのは無謀なのかも知れない」
と思うようにもなった。
罪悪感を持っている間というのは、考えてみれば、鬱状態との共通点も多いかお知れない。
例えば、チンダル現象であるが、塵や埃が光っているというところまでは感じること曖昧な気がするが、気だるさはあるような気がする。最初はそれを、
「憔悴感が続いているからではないか」
と思っていたが、どうも少し違うようだった。
お店を出てからの憔悴感というのは、まだ快感の余韻のようなものが残っていて、その思いが身体を敏感にしていて、ムズムズとしたむず痒さが印象的である。それは、チンダル現象とともに起きる鬱状態での気だるさとは明らかに違っていた。
ただ、罪悪感というのも、快感が身体の中に残っているから感じてしまうものではないかとも思えた。
これは自己嫌悪と比較すると感じることであるが、罪悪感というのは、何か必ず自分に罪を感じるものがあってしかるべきである。それが、
「快感を味わったこと」
だとすれば、それは世間的に悪いことではないはずなのに、どうして罪悪感にまで発展するのか、そこにはお金の概念があるからなのかも知れない。
相手が彼女であったり、ナンパなどをして合意の上での性行為による快感であれば、罪悪感を持つであろうか?
もちろん、自分に彼女がいて、それで浮気をしたのであれば罪悪感を持って当たり前だと思うが、お互いにフリーであれば、それは別に罪悪感に至るものではない。かといって、風俗というのも市民権を得た立派な商売だという状況でのことなので、誰に何かを言われるいわれも、罪悪感を抱くことなど何もない。それでも罪悪感を抱くのは倫理的な意識というよりも、金銭が関わったことへの自分なりのこだわりがあるからなのかも知れない。
ただこれは相手に対して実に失礼な感覚である。少なくともちひろは自分を純粋に楽しませてくれようとしてくれているし、その気持ちが分かるから、こうやって何度も通っているのだ。
通っていることに対して罪悪感はない。罪悪感を抱いている時でも、通うことから来る罪悪感ではないと思っている。
では、この罪悪感がどこから来るのか、やはり金銭が絡んでいるからだと思うとすれば、そこに自分なりのこだわりを感じるということで、他人には関係のない自分だけへの悪の意識、つまり自己嫌悪が発生していると思えば、こちらからの観点からも、自己嫌悪の存在を証明することもできる。
そう思うと、自己嫌悪は明らかに発想としては間違っていないだろう。
となると、鬱状態というのも、罪悪感から証明できる何かがあるということであろうか?
鬱状態に陥った時、すべてのことがネガティブになり、普段であればありがたいと思うこともすべてが嫌味であるかのように、イライラしてくることがある。
大げさではあるが、まるで麻薬中毒で起こる禁断症状のようなものではないか。
まわり全体がすべて自分の敵に見えてくるというような妄想であったり、ないはずの穴や谷底が見えてくるというような幻覚を感じたりと、鬱状態というのは、ひどい時であればそこまで行くという話を聞いたことがある。
実際に中西がそこまでひどい妄想、幻覚を感じたことはなかったが、それはきっと躁状態との間で鬱状態が繰り返されていたからではないかと思う。
その間に何度か怖い夢を見たこともあるだろう。ひょっとすると、悪夢と呼ばれるようなものを見ていて、鬱状態の時であれば、覚えているということが皆無であるという理屈であれば納得ができる気がする。
――ということは、怖い夢を見て覚えている時というのは、ちょうど躁状態の時か、平常心の時に感じることなのかも知れない――
と思った。
だが、逆に鬱状態の時というのは、
――精神的に感覚がマヒしているのではないか?