ふたりでひとり
今までに自分から人に話しかけたことはなかった。大学に入って、とにかく友達を作ろうとして話しかけたことはあったが。話しかける理由と、どうしてもその人でないといけないという必然性がないので、自分から話しかけたと考える自分の理屈ではないような気がしていたのだ。
かといって、自分も人から話しかけられる方ではなく、
「自分から話しかけようとも思わないやつが、他人から話しかけられるわけもない」
と思っていたことで、それはそれで仕方のないことだと思うのだった。
大学ではたくさん知り合いはできたが、それは友達と言えないだろう。すれ違いざまに挨拶をするだけで、それ以上の話をしない人が結構いる。まわりに対して、
「あいつは友達多いんだ」
と感じさせることが自己満足だったとすれば。何と小さな自己満足であろう。
逆に自己満足を悪く言う人には、これくらいの自己満足であれば容認できるものなのかも知れない。自己満足を嫌う連中でこそ、容認できる自己満足という保健のようなものを持っていると思っているからだった。
ただ、この程度の自己満足でよかったのだから、大学入学の頃というのは、相当浮かれていたのかも知れない。それまでの必死だった受験勉強から解放され、自由になったという意識は果てしないものであり、少々の行き過ぎは目を瞑ってもいいと思っている。
そういう意味で、確信犯だったのかも知れない。同じ確信犯でも許されるものもあるとすれば、この程度のことではないだろうか。
罪悪感をあまり感じなくなったのもその頃で、罪悪感は偽善へのパスポートのようなものだと思っていた。罪悪感を高校生の頃までは悪いことだとは思っていなかったが、大学生になってから考えがオープンになってくると、偽善というものをさらに意識するようになり、その偽善がどこから来るのかを考えた時に、罪悪感という意識が募ってきた。
偽善を嫌うということは、罪悪感も否定するということであり、罪悪感がなくなったことで、いくら先輩からの誘いとはいえ、風俗に対して偏見を持たずに行くことができたのだと思っている。
もっとも、偏見と感じた時点で偏見が残っていた証拠なのだろうが、その時はそんな意識はなかった。
中西は、躁鬱症を感じるようになってから、自分が何かショックなことが起こった時、身体に変化がもたらせることを悟った気がした。身体に変化というよりも、感じることで反応すると言った方がいいだろう。
風俗に行ったきっかけは確かに先輩に連れて行かれたというのが本音であるが、その後で通い詰めるようになったのは、自分の責任でしかない。
最初の時に感じていた店を出た後の憔悴感は、次第になくなっていた。快感というのは放出されるまでの高ぶりと、放出してしまってからの憔悴感の大きさには個人差があるであろうか、個人差という一言で言い表せられるだけのものではなく、それが罪悪感となり、予期せぬ鬱状態への入り口を作り出してしまうのではないかと思えた。
それが自分にとってショックなことだろうと思った。そんなショックや鬱状態を感じるようなら、最初からいかなければいいと思っていたのだが、二度目以降はそれとは少し違った発想が生まれてきた。
二度目からも確かに憔悴感は残ったが、最初とは何かが違う。その原因がどこから来るのかを考えたが、結論は一つしかなかった。
――自己嫌悪に陥らないからだ――
と思うことだった。
最初は憔悴感が自己嫌悪を起こし、そのまま罪悪感に結び付いていた。その時は途中にある自己嫌悪を感じることがなかったので、いきなり憔悴感から罪悪感に結び付いたのだ。だから、二度目から何かが違うと思いながらも、憔悴感と罪悪感はあったので、入り口と出口がハッキリと分かっていることで、最初と何が違っているのか分からなかったのだ。
きっとそれ以降の同じように自己嫌悪を感じることはないだろう。そう思うと、鬱状態には入らないような気がした。
つまり、鬱状態に入る一番の原因は、自己嫌悪が起きることでの罪悪感から鬱状態を自ら生み出してしまうという考え方である。
最初に店に来た時は、何が何か分からず、ただちひろにまかせっきりになっていた。それが自分の意識をマヒさせて、自分の中で必死に言い訳を考えていたのだろう。
言い訳はもちろん自己嫌悪に陥らないようにするためのもので、基本的に悪いことをしているという意識があるのは間違いないことだろう。
自己嫌悪も罪悪感も自分の中だけで抱くものだが、自己嫌悪に陥るのが先で、罪悪感は後のはずである。なぜなら自己嫌悪に陥ったとしても、陥る原因が必ずしも自分が思っている悪いことだという意識があるわけではない。世間一般には悪いと思われていることかも知れないが、自分でそれを認めることができないから、自分で自分を嫌いになろうとするのだ。
だから、自己嫌悪は自分で思っているほど、本当に自分のことが嫌いなのではないかも知れない。それが罪悪感に陥ってしまうと、世間一般でも悪いと思われていることであり、自分でも悪いことだと認識していることになる。こうなってしまうと、完全に言い訳ではすまないことになるだろう。
だが、不思議なことに中西の中では、罪悪感の方が自己嫌悪よりも早く抜けられそうな気がする。自己嫌悪に陥っているという意識を感じることがないのも、そんな抜けられない状態に陥っているということを認めたくないからだと思うのは、おかしなことであろうか。
罪悪感と自己嫌悪はどこがどのように違うのか? 中西は考えてみた。
罪悪感というのは、世間でも自分でも同じように認める悪いことだという思いがあるので、言い訳もできず、神妙な気持ちにもなれる。懺悔するにもその理由を素直に求めることができるからだ。
しかし、自己嫌悪というのは、自分でも自覚できないほど、あやふやなものだという士気もあって、捉えどころがないという思いにも至る。ただ自分だけが悪いと思っているわkで、世間ではそう思われていないということから、甘えのようなものが出るのではないか、それが自分の中で曖昧から逃れられないものになると思っていた。
だが、よく考えてみるとこれも少し違う。
自己嫌悪に陥った時の方が、罪悪感を感じた時の方が、
「鬱状態に入りやすい」
ということを感じるようになった。
鬱状態というのは、躁状態と対になっていると思っていることであったが、自己嫌悪から入る鬱状態は、躁状態を伴うもので、必ず抜けることができると思っていたからである。
しかし、自己嫌悪から入ってしまうと、未知の世界の鬱状態に陥ってしまうのであって、それが底なし沼のようで、何よりも恐ろしいと思わせる。
自己嫌悪は自分に意識させない場合もあるが、考えてみれば、そっちの方が恐ろしいのかも知れない。
今までにも何度も自己嫌悪に陥ったことはあったような気がする。その時にも鬱状態に陥っていただろう。それなのに、その時のことを思い出せないというのは、ひょっとすると、
「鬱状態に陥らせた自己嫌悪を思い出さないように、自己防衛意識のようなものが働いているから、思い出させないようにしているのではないか」
と考えていた。