小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

ふたりでひとり

INDEX|13ページ/28ページ|

次のページ前のページ
 

 今から思えば中学時代に躁鬱症になったことは、自分がまわりから置いて行かれたことが原因だと思っている。ただ、どうして置いて行かれることになったのかという根本的な理由が分からなかった。だが、大学生になってからきっかけが何だったのか分からないが、急に思うところがあり、中学生のあの頃の自分が、
「偽善者的なところがあった」
 と思ったことだった。
 中学時代のある時まで、偽善者ということを意識もしたことがなかったのに、ある時急に偽善者というのを意識するようになったことだった。
 その時にはすでに躁鬱状態に入っていて。逆に躁鬱状態に入ったから、自分い偽善者的なところがあったのではないかと思った。それ以来、偽善者というのは見るのも聞くのも、意識することも嫌になっていた。毛嫌いしていたと言ってもいいだろう。
 大学生になってから少しの間は自分に羞恥心というものが強くあるのだと思っていた。いくら先輩から誘われたとしても、風俗になど行くようなことはないと思っていた自分だったが、それは誘いに乗ってしあうと、自分の持っているプライドすべてを失うのではないかという思いがあったからだ。
 確かにプライドのようなものは持っていた。そんなプライドが邪魔をしているという感覚も大学の中であった。だが、大学というところは自分が思っているよりも多種多様な人がいる。
 中には、
「プライドなんか、鼻紙にもならない」
 とうそぶくものもいた。
「いやいや、プライドがないといけないでしょう」
 というと、
「そんなものに縛られていては、何もできないさ。何もできないということは逆にプライドというものが絵に描いた餅のようなものだという証拠になるんじゃないか?」
 という。
 それを聞いて、少し黙り込んでしまった中西だが、それはどう言い返していいのか、思い浮かばなかったからだ。
 反対するには、相手の言い分よりも説得力のあることを言わなければいけない。同じであれば競り負けてしまうことは分かっていた。
 中西が小説を書くようになったのは、その頃からではなかったか。それまでは多分に漏れず、なかなか継続させることができなかった。継続させることができないと完成させることができない。
「初心者にはまず完成させることを目指していただきたい」
 と、小説入門を見れば、どこでも書いていることだった。
 逆に言えば、完成させることが難しいのだ。完成させることができれば、後はそれほど難しくはない。継続の問題だからだ。
 継続にもそれなりの困難がある。完成させることよりも難しいこともあるだろう。だが、完成させることができずに挫折し、諦めてしまう人がほとんどなので、継続の難しさを知る人などなかなかいないだろう。
「完成させることと、継続させること、何かに似ているような気がするな」
 とその頃から考えるようになった。
 その答えが分かったのは実に最近になってからだったが、どうして分からなかったかは自分でもハッキリとしない。
「完成させることと継続させること、それに似た感覚は、意識と記憶である」
 記憶も意識して初めて成立するものである。継続も完成がなければできるものではないからだ。
 この場合の継続は、執筆の継続ではなく、完成のあとの継続という意味であり、記憶と同じ理屈にはならない。
 かといって、継続というものにいくつも意味があるわけではなく、執筆の継続と、完成させたものの後に来る継続は本当は同じものではないかと思う。
「では、継続にも記憶と同じように封印のようなものがあるのだろうか?」
 と考えてみたが、同じようなものはないが似たようなものを感じることができた。それが、
「惰性」
 であった。
 惰性というと、あまりいいイメージがない。継続を保つことで起こる焦りのようなものが影響しているのかも知れないとも感じるし、惰性によってせっかくの継続が危うくなってしまうのではないかとも感じられた。
 そんなことを考えていると、
「ひょっとして、中学生の頃に感じた偽善というのは、この惰性に似た感覚ではなかったのだろうか?」
 という思いだった、
 急に偽善という感覚が出てきたわけではない。少なくとも友達がいて、友達を作るという目的は達成していた。しかし、その中で友達との仲を継続させることに対して、どこかで間違いがあったのだろう。それが惰性のようなものだったのかは分からないが、継続に対して黄色信号を示したことが原因だったと思えたのだ。
 その偽善は、今自分の中で完全に、
「悪」
 として指揮している。
 完全な悪として考えるのは危険なのかも知れないが、これのおかげで中学時代に躁鬱症に陥ったのは間違いのないことだった。
 今でこそ躁鬱症は慢性化したとはいえ、それほど頻繁ではなくなった。繰り返すと言ってもそんなに何度も繰り返すわけでもない。何よりもパターンが分かってきたというのは自分にとって有利なことだと思うようになった。
 信号機で思い出したが、信号は青から黄色、赤に変わるが、赤からはすぐに青二なる。
 しかし、躁鬱症の場合は逆で、鬱状態から躁状態になるまでにトンネルのイメージという予兆めいたものを感じるが、躁状態から鬱状態には黄色信号はない。
「ハッキリした感覚がないというだけのことで、鬱状態に陥る時は分かる気がする」
 と思った時期もあったが。それは躁鬱症を最初に感じた時の一度か二度だけのことだった。
 それからというもの、躁鬱状態が再発するようになってからは、一度も躁状態から鬱状態に落ち込む時に感じる感覚はなかった。
 それがいいことなのか悪いことなのか、ハッキリとは分からない。ただ、トンネルのような感覚がないのは確かだ。
――ひょっとするとチンダル現象のようなものは感じているのかも知れない――
 と感じ、意識してみたことはあったが、そもそも感じるとしても、それが鬱状態への入り口であると分かっていなければ意識できないものである。
 分からない以上は、果てしなく感じていなければいけないことであり、度台そんなことは無理なこどなのだ。
 躁鬱症という病気の名前がハッキリしている以上、躁鬱症に罹るのは自分だけではないということは百も承知のはずだが、
「ここまで理屈を分かっている一般人は自分くらいのものであろう」
 という自負もあった。
 だから、見ていて明らかに躁鬱症だと思っている人を見かけると、話しかけてみたくなる衝動に駆られる。しかし、それをしてしまうことは自分がもっとも嫌悪している偽善的な行為になってしまいそうで、声を掛けることはできなかった。これも一種のジレンマであり。衝動と嫌悪しているものの板挟みは思ったよりも自分の考えを惑わすものとなっていることを、まだ分かっていなかったような気がする。
 人に話しかけるということは勇気のいることだが、話をしてみて共感を得ることはもっと楽しいことだということを分かっている。
作品名:ふたりでひとり 作家名:森本晃次