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ふたりでひとり

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 そう思った時、
――あれ? 影って感じるものなんだっけ?
 とおかしなところにピンときたのだが、確かに影を感じるというのはおかしな気がした。
 だが、冷静になって考えてみると、影というのは普段から意識しているものではない。
「あって当たり前」
 のものであって、光があるのに影がないなど考えられないことから、
「別に意識することではない」
 と思うものなのだ。
 それだからこそ、影がないことに気付かなかったのだ。
――これって「石ころ」の意識だよな――
 と思った。
「石ころ」というのは、単に路傍に落ちている石という意味なのだが、そこには、
「皆が目の前にしているのに、いちいち意識する人などいない」
 という、あってあたり前のものは、目の前にあってもいちいち意識しないということの代名詞になっていた。
 もっとも、この時点で意識しているのであるが、それは理論として意識しているだけで、実際にある路傍の石をいちいち意識することはない。そういう意味で、これほど相手にとって都合のいいことはないだろう。そばにいても相手から意識されることのない存在というのは、ある意味これほど怖いものはないともいえるのだ。
 中西は、その頃から躁鬱症になっていくのを感じた。躁鬱症というのは、躁状態と鬱状態を一定の期間で繰り返すことで、その繰り返しがなければ、躁鬱症とは言わないのではないかと勝手に思っていた。(思い込みなのかどうかは分からないが)
 躁鬱症と通称で呼ばれる症状は、双極性障害と言われているように、
「躁状態と鬱状態を繰り返す」
 と言われている。
 実際に中西が自分を躁鬱症せはないかと感じたのは、躁状態と鬱状態を定期的に繰り返すようになってからだ。最初は鬱状態がやってきた。その原因はまわりからの被害妄想だったのだが、教室が広く感じられたり、人の影が見えてこないという、一種の「幻覚」が見えたことからだった。
 そのうちに感じたのは、昼間の億劫さだった。
 それを顕著に感じたのは、信号機を見た時だったのだが、信号機の赤色と青色が何となく気になった。
 これも最初は何に気になるのか分からなかったが、赤色や青色が鮮明に感じられなくなり、さらに青色が緑にしか見えなくなったことで、その理由を模索していると、その原因が埃にあることに気が付いた。いつもは日の光に意識がいかないのに、被害妄想になってから少しして、日の光を意識するようになったのを感じた。色が薄い黄色に見えたからだった。
 それは、埃が舞っている時に感じる光の線であるが、調べてみると、
「チンダル現象」
 というそうである。
 そんなチンダル現象が気になるようになることが、信号機の青を緑と錯覚させるようになったのかも知れない。
 だが、チンダル現象を気にするようになったというのも、その原因として鬱状態になり、まわりを自らが拒否するようになったことで、それまで感じることのなかった。いや、見えていたが意識しようとしなかったことを無意識な自分が気付いたということになるのだろう。
 そういう意味では、鬱状態が決して悪いことのように思えない自分がいた。確かに被害妄想がひどくてまわり全員が敵のように見えていたのは辛いことではあったが、その間でも絶えず何かを考えていたのは。そんな状況から少しでもあがいて抜け出そうという思いがあったからであろう。そう思ったことが、チンダル現象を見せることに繋がり、信号機の錯覚から自分を顧みる時間ができたことで、
「鬱状態も悪くない」
 と思わせたのに違いない。
 チンダル現象は薄い黄色であったが、この黄色というのが中西の中で、
「トンネルの中で光っている黄色いライト」
 を想像させた。
 一定区間に点在している黄色いライト、それはトンネル内と外とでなるべく光の刺激の差をなくすことで錯覚を起こさないようにするための、一種の官庁緩和剤のようなものと言ってもいいのではないだろうか。
 そういう意味で、トンネル内の「鬱」と、トンネルの外の「躁」がうまく連動させるには、黄色いライトが必要であると言えるのではないだろうか。
――そんな理屈、知るわけもないのに――
 それはそうである。
 調べたから分かったことで、中学生の少年に何の知識があるというのか、まったく知らないことを意識していたということで、これも一種の潜在意識ではないかと思った。しかも、本能に近い形の潜在意識である。
 躁鬱症というものに対しても知識があるわけではないのだが、鬱状態から躁状態に至る時に感じるものがあった。それはまさにトンネルから脱出する時のあの感覚である。
 表に出ると、急に色が戻ってくる。トンネル内にいれば、黄色いライトによって、どんな色でも、そのほとんどがグレーにしか見えてこない。なぜグレーなのかまでは分からないが、それも光の屈折が招くもの。つまりはチンダル現象のようなものだと考えてもいいのではないだろうか。
 躁状態になった時の意識は、躁状態の時にはあるのだが、それが記憶として残ることはなかった。
――まるで夢だったようだ――
 という意識すらない。
 躁状態があったという事実だけは意識できるのだが、それがどのようなものだったのかということは記憶にすら残っていない。それも封印されているのではなく、ほぼ記憶から消えているという意識である。そう思うと、
「躁状態では、記憶喪失状態なのではないか?」
 とも感じられた。
 記憶喪失にもいくつか種類があり、ある一定の期間だけ記憶がないというものも少なくない。実際に記憶喪失と言われたことはないので、ハッキリと分からないが、ポッカリと空いた記憶の間は、
「なかったこと」
 として記憶には残ってしまうようだ。
 あったという意識はあるのに、記憶がなかったこととして返してくる答えには明らかな矛盾がある。
「ひょっとしてこの矛盾が躁鬱症を引き起こす理由なのでは?」
 という突飛な発想まで出てくるほどに考えたことがあった。
 だが、この発想も躁鬱症というものを考えるうえで、
「意識と記憶の相互関係」
 というものを織り込むことで、飛躍的に発想が発展してくるということに気が付いた。
 これが一種の「きっかけ」というものではないだろうか。
 きっかけというのは、どこにでも転がっているようで、それをきっかけと感じなければ機能しない。それは路傍に落ちている石を、
「それは石なんだ」
 と意識しない限り機能しないと言ってもいい。
 それがどれほど難しいことなのか、きっかけという発想と合わせて考えることがなければ出てくる発想ではないからである。 逆にいうと、そのきっかけさえ掴んでしまうと、それまで理解できなかった不可解なことも、氷解していくようにすべてが明るみに出るような気がした。
 だが、その明るみの中にも、決して明かしてはいけない、
「開かずの扉」
 のようなものが存在しているのではないかと思うようになった。
作品名:ふたりでひとり 作家名:森本晃次