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短編集83(過去作品)

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 今までに時々旅行にも出かけていたが、萩はいまだに訪れたことのないところだった。山陽地方には何度か行っていたのだが、山陰地方はどうしても交通の便が悪いというのが頭にあるので、旅行先とはいえ、なかなか移動に手間のかかるところは嫌だったのだ。そんなこともあって訪れたことのなかった萩に和子が死んでしまった今訪れようという気になったのも皮肉なものだ。
 新幹線で下関まで行って、そこから山陰線、やはり交通の便がいいとは言いがたい。朝出てきたのに、着いたのは夕方近くになっていた。駅を降りて宿に向かうまでに見える夕日は実に綺麗で、
「和子と一緒に見たかったな」
 と思わず呟いていた。
 一人旅には贅沢なくらいの温泉宿の一部屋を借り切った。誰かもう一人いてちょうどいいくらいの部屋に一人というのも寂しいもの、部屋の中で一人いると却って気が滅入ってしまいそうになる。
「ここから近い観光地ってどこですか?」
 風呂から上がり、食事の時間を確認に来た仲居さんに聞いてみた。
 チャックインしてゆっくりと露天風呂に浸かったが、それでも夕食までにまだ少し時間があった。何よりもまだお腹が経ていないのだ。本当なら長旅で疲れているのだから、お腹が空いてもしかるべきなんだろうが、どうも和子が死んでからというもの、食欲がいまいち湧いてこない。精神的に抜け殻のようになっているのかも知れない。
「そうですね。ここからでしたら萩城跡が近いですね。天守閣など残っているわけではないですが、散歩気分でゆっくりとご覧になるにはちょうどいいかも知れませんよ」
「ありがとう。少し行ってみるかな?」
「ええ、いってらっしゃいまし」
 萩というところは、ほとんどが平地で、小さな街に観光スポットが点在しているので、レンタサイクルが活躍する。東萩駅でもレンタサイクルを貸し出しているし、この旅館でも貸し出しているようだ。しかし、ここから萩城までは近いので、レンタサイクルを借りることなく徒歩で向かうことにした。夕日を正面に見ながら歩く格好になるので少し眩しいが、それも一興ではないだろうか。ゆっくり歩いてくると、目の前に石垣をバックにお濠が見えてきた。
 石垣の上にある木々の間から夕日が覗いている。それを横目に見ながら端へと向かっていると、夕日がついてくるように見えて面白い。思わず足元を見たが、自分の影が細長く反対側に向かって伸びていて、何となく気持ち悪く感じた。
 影を気にすることは以前から癖だった。特に小学生時代などは足元を見ながら歩くことが多く、足元から広がった影をじっと見つめながら歩いていたものだ。
「危ないからやめなさい」
 親からも注意されたが、癖になってしまっているので、なかなかやめられるものではなかった。下を向いて歩くのは格好悪いという考えがまわりにはあったようだが、和豊自身気になるものではなかった。
――そんなこと気にしたって仕方がないや――
 と思う気持ちがあったからか、下を向く癖を直そうという気にもならなかったというのが本音かも知れない。
 萩城を目の前に頂く道は砂地なので、影もコンクリート地とは違い、少し歪に感じられる。それこそ小学生時代の自分が見ていた影を思い出しそうな気がした。
 影を見ながら歩いていると、気がつけばかなり歩いてきていた。見つめるその先が歪に見えないのは、自分の意思に逆らうことのない影だという思い込みがあるからだろう。他の人の影を見ていると平面が歪にゆがみ、どんな行動をとるか分からない。
 太陽を背中に受けていると熱さを感じて、汗が滲み出てくるのを感じる。秋も深まってきたこの時期に汗ばむような西日を浴びようとは思いもしなかった。
――きっと和子も同じような夕日を見ていたような気がする――
 と信じて疑わなかった。
――今まで何人の人がまったく同じ場所から同じ時間の西日を見たのだろう――
 スケールの大きな疑問である。まったくいないかも知れないし、かなりの人数いたかも知れない。ひょっとして維新の元勲も同じものを見ていて、同じことを考えていたかもと思えば萩という街を肌で感じているのが分かる。
 その中に彼女が好きだと言っていた高杉晋作もいたことだろう。かくいう和豊も高杉晋作が好きで本も読んだりした。若くして病気で死んだのは、実に惜しまれることだったに違いない。
 ゆっくり萩城を見て歩くと、帰る頃にはすでに夜の帳が下りていた。西日が水平線に落ちていくのが見たかったが、なぜか日が落ちるのをまったく気にしていなかった。先ほどあれだけ西日を気にしていたにもかかわらず、なぜなのか分からない。何か自分にも分からない力が瞬間で作用したのではないかと考えないと合点がいかない気がするのだ。
 帰りがけに見かけた喫茶店、田舎なので夜の帳が下りてしまうとほとんど暗闇に包まれてしまう。一気に冷たさが襲ってきて、心細さを誘う。まるで魔物が出てきそうな状態に輪をかけるように犬の遠吠えがどこからか聞こえてくる。まるで満月に向かって吠えるオオカミのようである。
 そういえばその日は満月だった。
「綺麗な月だね。満月だよ」
 と和子に教えてあげたことがあった。だが、その時和子は、
「女は満月を見ちゃいけないんだって、どういう理由か知らないんだけど」
 と言って見ようとしなかった。せっかく一緒に綺麗な月を見ようと思っていたのに、拍子抜けしてしまった。
「どうしてなんだろう?」
「分からないわ」
 月というのが女性にとって特別な意味のあるものだということは、大人になれば分かるのだ。男と女は大人になるにつれ、まったく違う身体になっていく。身体だけではなく精神的にも同じことが言えるだろう。成長していく女性が月というものを特別なものと考え、男性に分からない感情を持ったとしても何ら不思議のないことだ。
 しかもその日の月はいつもに比べて赤みを帯びていて、気持ち悪かったことが記憶に残っている。和子が見なくて正解だったかも知れない。どうやらその日から少し体調が悪くなったようで、女性ならその理由は一目瞭然だっただろう。その時の和豊には分かっていなくて、後になって思い出すと、ピンと来るという程度だった。
 和子との思い出には、
――後から思い出す方が却って鮮明だ――
 ということが多い。その時には漠然としていても、後から思えば……というのが、かなりある。月の話題に限ったことではない。
 一緒にいた頃が今から思えばまるで幻のようだ。逆に今目の前に現れそうな気がするくらいで、遺影に写っている顔そのままのイメージが頭の中で交錯している。
――今なら一緒に月を見ようと言ってくれそうだ――
 そんなはずはないと思いながらも感じるのは、夢の世界に似たものを和子の死に感じているからに違いない。何でもありというわけではないが、永遠に和子は自分のものになったと思わないではいられなかった。
 しばし満月を見ていたが、踵を返すと後ろにある喫茶店に入った。レトロ調の喫茶店ではあるが、中は白地を基調とした造りになっていて、扉を開く時の、
「ガランガラン」
 という重低音が静かな店内に響き渡った。一番驚いたのは当の和豊である。
作品名:短編集83(過去作品) 作家名:森本晃次