短編集83(過去作品)
だからといって、いつも来れるわけではない。会話だけして帰る人もいるというが、どんな会話をするのだろう。よほど気持ちに余裕があるのか、それともまったく正反対なのか、その心境は図り知ることができない。
「私、もうすぐやめるつもりなの」
他愛もない会話の後で、彼女はそう言った。店ではあゆみと呼ばれていたが、あゆみという名前にも少し惹かれたのかも知れない。名前で雰囲気を想像することもあるが、あゆみという名前にピッタリだと思ったのは、間違いないことだった。
やめるという言葉を聞いて急に親近感が湧いてきた。寂しくて、人肌が恋しくて来た自分の気持ちを再認識し、それをこれからも癒してくれるかも知れないと感じたのだ。
「どうしてやめるって僕に話したの?」
「あなたになら自然に言えたのよ。他の人にはまだ言ってないの」
「店の人にもかい?」
「ええ、誰にも言ってないのよ。自分で考えているだけ、不思議でしょう? 初対面のあなたに言うなんて……」
初対面だから言えるということもあるが、それだけではないように思える。それから何度か彼女を指名したが、やめるといっていたのはウソではなく、三回目には、
「私、来週までなの」
と言っていた。
それから付き合うようになったきっかけというのが何だったか、細かいことは覚えていない。細かいことはあまり重要ではないように思っていたので、それほど意識していなかった。付き合い始めてからさらに気持ちが高まっていき、結婚するということまで考えるようになったのだ。
元々彼女は風俗には向いていなかった。最後までどうして風俗で仕事をするようになったのかを聞き出せなかったが、今はもうそんなことはどうでもいい。聞く相手がいないのだから、あれこれ余計な詮索など愚の骨頂である。
しっかりしていると最初から感じていたが、店をやめてからさらにその気持ちは強くなった。細かいことを気にしているようで、大雑把でもある。それがすべて的確なので、違和感なく接することができる。だが、じっと観察していれば細かいことまで実によく計算されているように見えて、さすがと唸らせるところがあった。営業をしていて自分に足らないところを見ているようで、つくづく感心させられたものだ。
親戚や身寄りが少ないので、結婚に際しての手間はあまりなかったが、それだけに気配りに行き届いていた。数少ない親戚を大切に思っていたのだろう。何かあれば助けてくれるような関係だったのかも知れない。
だが、和子の性格からいくと、困っても当てにはしないだろう。そうでなければ風俗で働くこともなかったはずだ。それだけを見ても強情なところのある女性であることは見て取れるし、引き際の素早さからも日頃から先々を見ていることが伺える。
一緒にいる時間が増えてくると彼女の素晴らしいところをどんどん再発見していく。いくら職業で差別してはいけないとはいえ、
――風俗の女性――
ということで、ずっと一緒にいることになるなど想像もしていなかった。よほどの理由があったのだろうが、誰にも悟られずに働いていたことは立派だった。一緒にいればいるほどそのことを感じ、恐れ入ったものだ。
だが、いつ頃からだろうか。時々彼女の寂しそうな顔を見るようになった。自覚していないのか、無意識の表情のように思えてならない。
そのことについて和子を追及してみたことはない。寂しそうな表情をするといっても一瞬で、よそ見をしていれば気づかないだろう。だが、それだけに和子を見ていない時に寂しそうな表情になっているのではないかとも思えて、なるべく顔を見つめているようにしていた。
「何? 私の顔に何かついているの?」
と、おどけたように少し大袈裟な仕草を見せる。さすがにじっと見つめているのに気づいたのか、珍しく大袈裟な仕草をしたのだ。
「いやいや、何にもないよ」
慌てて打ち消すが、それも慌ててなのでオーバーアクションになっていることだろう。その瞬間だけ、異様な雰囲気に包まれているかも知れない。
寂しそうな表情は、虚空を見つめていて、普通の人には見えない何かを和子だけが見つめているという風に思えてならない。いつも一瞬なので、そこから先の想像をつけることもできないでいた。
「私最近歴史に興味があるのよ。よく本を読んだりするわ」
風俗をやめてから、普通の生活を始めた頃の和子の話である。虚空を見つめるようになったのもちょうどその頃だったように思う。
「歴史は僕も好きだけど、苦手な時代もあるよ」
「私は幕末が気になってきたわね。歴史の登場人物から歴史全体を、歴史全体から登場人物を交互に見ようとするんだけど、なかなか難しいわね」
その話を聞いて思い出したのが右と左の手の平である。それぞれの手の熱さが違う時に重ねてみることを想像してみた。熱い方は冷たく、冷たい方は熱く感じるはずである。
だが実際にはそううまいこと感じることはできない。どちらかに集中して感じようとするのだが、お互いに気になるのか、感じることができない。片方に集中することの難しさを感じるだけだった。
楽器ができる人が素晴らしいと思うのは、右手と左手でまったく違う動作ができるからである。ピアノにしてもギターにしてもまったく違う行動ができるのは、それだけ全体に集中できるからだと思っているが、違うだろうか。左右の手の平に感じる熱さや冷たさも同じことが言えるように感じている。
歴史の本を読んでいる時、同じように感じる。本の中の主人公に自分を当て嵌めて読むからだろうか、読んでいる自分も客観的に存在しているのも事実だ。二人の自分が存在する。右手の自分と左手の自分、同じように感じることができないので、それぞれの目でお互いを感じている。
「幕末というと動乱の時代だよね。人物にしてもそれぞれに思想や思惑を持っていて、時代に翻弄された人が多いと思うよ」
「そうなのよ、私は高杉晋作が好きで、この間友達と萩まで行ってきたのよ。萩って長州藩の人たちの生家があったりして、昔ながらに残されていて素敵だったわ」
結構フットワークが軽いと和子に感じたのは、その話を聞いた時だろうか。萩というところは和豊も修学旅行で行ったのを思い出した。あの頃はまだ歴史に興味のない頃で、昔ながらの街並みだけに感動していたように思う。歴史に興味を持ち出したのは大学に入ってから、受験のための暗記物としての学問である歴史は正直好きになれなかった。
歴史が暗記物でないと感じたのは大学に入ってから、大学でできた友達と旅行に出かけるようになって、名所旧跡を見て回る時に、友達の中にはやたら詳しいやつが一人はいるもの、いろいろ面白い話を聞かせてくれた。
歴史に興味を持つのと同時に、その友達が格好良く見えてくる。
――僕もあれくらいになれればいいな――
と思ったものだ。
――好きこそものの上手なれ――
ということわざもあるが、元々本を読むことが嫌いではない和豊は、時間があれば歴史の本を読んでいた。特に幕末や戦国時代に関してはいろいろな本が出ているので、寝る前の時間を利用して読んだりしていた。グッスリと眠れるからだ。
作品名:短編集83(過去作品) 作家名:森本晃次