短編集83(過去作品)
声は高い方で、あまり大きな方ではない。一見暗そうに見えるが、会話に対してのリアクションは大きい方で、くだらない話にも笑顔を見せてくれる。そんな彼女と話をしていると睡魔が襲ってくるように感じるのは、きっと二人だけの世界を作りたいからに違いない。
お互いの過去については、考え方は少し隔たりがあった。男と女の違いといえばそれまでだが、彼女の方は自分のことはあまり話したがらない。和豊の方は、
――まず自分のことをしてもらいたい――
という気持ちから、何でも話をする方なので、いつも一方通行になりがちである。しかしそれでも飽きもせずに話を聞いてくれる和子に感謝こそすれ、話をしてくれないことへの苛立ちは感じない。
ゆっくりと二人だけで話す時間はたっぷりあった。二人でいる時は二人だけの世界、誰にも立ち入ることのできない世界だと思っていたので、お互いにその時間が短かったのか長かったのか、今さら分からないが、長かったと思えば却ってそれが虚しさを誘うようで思い切れないのだ。
「和子、君はどうして……」
一人になって霊前に向かいたかった。しかし、家族やまわりの人の手前それはできない。婚約はしていたが、結婚しているわけではなかった。それだけに言い知れぬ悔しさや虚しさが和豊に襲い掛かるのだ。
葬式などの行事が続く方が精神的にはいいのかも知れない。一人になったらロクなことを考えないのも和豊の性格で、
「あなたは損な性格をしているところがあるわね」
と和子に言わせたことがあるくらいだ。
最初損な性格だとは思わなかった。他の人とそれほど違わない性格で、一人で考え込めば、誰でも悪い方にしか考えないと思っていた。
「そんなことはないわよ。それがあなたの悪いくせというものなのよ」
と和子に戒められた。自覚がない頃はそれでもよかった。しかし一旦指摘されて自覚してしまうと、信じ込んでしまうのも和豊の悪いところでもある。和子という女性は、和豊の短所を抑えることができる唯一の女性に思えた。
――いや、あるいは長所に変えてくれるかも知れない。短所は長所と紙一重というではないか――
と考えたりしていた。
悪い方にばかり考える性格が幸いしたこともあった。他ならぬ和子と出会えたのも自分が悪い方にばかり考える性格だったからだと思えてならない。普通にものを考えられる人間であれば、悩んだりしてももっと違った行動をしているかも知れないからだ。
和子は、実は一時期風俗に勤めていた。仕事で失敗が重なり、自分に自信が持てず、失意のどん底にいた和豊が取った行動、それは実に衝動的で、本能に任せた行動だった。なぜそんな気になったのか、自分でも分からない。ただ、
――暖かく包まれたい――
そんな思いが強いだけだった。
仕事が終わり、夜の街で出かけてみる。昼とはまた違う顔を持っていることを再認識させられたのも事実で、いつもは意識することもなく疲れ果てた身体に鞭打つように帰宅の途についていただけだった。だが、その日は少し違っていた。目が血走っていたかも知れない。
前日は仕事がさばけずに遅くなってしまった。その勢いでその日の仕事をしたものだから、ずっとハイテンションを保ったままで、仕事が終わっても、まだ胸の鼓動が収まりきれないでいた。
会社の表に出て見たネオンサインがいつもよりハッキリと見える。夜になると、色がハッキリしてくるのは元々分かっていた。信号機などを見ていると分かることで、明らかに昼の色とは違う。緑っぽい色が完全に青に見え、赤色もハッキリとした赤である。
仕事で疲れているのもあるだろう。視力が低下してきている時というのは往々にして、すべてがハッキリ見えることがある。普段はあまり気にならないピンク色の妖艶な明かりがその日に限ってやたら気になった。
風俗というところに足を踏み入れたことはそれまでにもあった。しかもいつも一人でである。人と一緒に行くという人もいるようだが、気まぐれな和豊はいつも一人で入る。
「いらっしゃいませ」
店員のその言葉すらドキドキと胸の鼓動をさらに誘発する。待合室で待つこと数分、この時間が一番緊張し、楽しみでもある。待たされることの快感というものを初めて知ったような気がした。
部屋に案内されて、そこにいたのが和子だった。清楚な感じなのだが、話好きなのはすぐに分かった。お互いに緊張していて、最初は話ができなかったが、一言話始めると、堰を切ったように話題が出てきた。
元々ストレス解消が目的で、女性との会話というだけでも癒された気分になれるのだった。それがどこであれ、気分が乗ってくれば関係のないことだった。
会話は他愛もないことだった。溜まったストレスを解消すべく、まくし立てるように喋り捲る。それを黙って聞いてくれている和子の表情はまるで包み込んでくれるような雰囲気があった。それが嬉しかったのだ。
和子も、
「久しぶりにこんなに人とお話をしたような気分になったわ、とても楽しい気分です」
と言ってくれた。
どうやら、お店ではお客さんを相手にほとんど会話をすることもなかったようだ。挨拶をしてから話そうとしても、相手が無口だったり、傲慢だったりして会話にならないということだった。
「そんなところが嫌なんですよ、せめて会話があれば、少しは違うんですけどね」
元々会話好きな和子にとって、二人きりの部屋での無言は耐え切れないものがあったようだ。
「何が嫌と言って、無言のままに時間が経っていくのが辛いんですよ」
彼女の本音だろう。その気持ちはよく分かった。和豊も営業で会話が途切れてしまった時の焦りが一番つらい。そこからは何も進展しないからだ。相手が考えていることが分からずに、次の言葉が出てこない。これほど辛いことはない。
なぜといって、時間がなかなか経たないからだ。五分が一時間にも二時間にも感じられる。
特にその日の仕事はそうだった。いつもの営業先なのだが、普段はもっと気さくな性格の人なのに、その日に限って無口だった。少し神経質な雰囲気で、正面から目を見ることのできなかったところを見ると、少し経営的なことでの悩みがあるに違いない。そこはさすがに部外者、立ち入ることのできない悩みである。
会話にならないだけに時間だけがいたずらに過ぎていく。対峙している時はなかなか時間が経ってくれなかったが、過ぎてしまって後から考えればあっという間だったような気がするから不思議だ。意外と時間なんてそんなものなのかも知れない。
和子とはそんなことはなかった。
和豊が風俗の扉を開くのは初めてではない。だが、いつも受身で、たどたどしい中で過ぎていく時間がもどかしかった。
こういうところでしてはいけない会話が多いことは分かっている。分かっているだけに意識していると、話題はえてしてタブーしか浮かんでこないものだ。どうしてここにいるのか、家族のこと、身の上話などはタブーだと分かっているのだが、聞きたくなるのも男性として無理のないことかも知れない。その日限りだと思えないところが和豊にはあったのだ。
作品名:短編集83(過去作品) 作家名:森本晃次