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短編集83(過去作品)

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 湯けむりはタバコなどの煙とは一味違う。タバコの煙のように白さが前面に出ているわけではなく、濃い部分と薄い部分がまだらになっているようで、まるで白いレースのカーテンが舞い上がっているように見えるのだ。鼻を突くような臭いがあるわけではないが、温泉独特の香りが漂っていて、タマゴを食べたくなってくるのは、真崎だけではあるまい。
 露天だと、水の音が室内のように響くわけではないが、手を伸ばせば届くような真っ黒い壁のごとく張り巡らされた夜の帳に、反響しているように思えてならない。チャプチャプという音を立てながら手でお湯を手前に押していると、心地よさでそのまま眠ってしまいそうである。
「ザザーン」
 お湯が飛沫を上げて飛び散っている。一人が表に出たのだ。
「ふぅ、こりゃたまらん。熱すぎるぞ」
 熱くてお湯から出たのだ。少し涼むように端の方へと行くと、そこには座って休憩できる場所が作られていた。彼が座っているのを見ていると、湯気が影を作っているのか、森になっている後ろの方に真っ黒く伸びている。
 身体からも湯気が上がっていて、それも影になって浮かび上がっている。異様な光景だったが、暗闇に目が慣れてくると、月明かりが影を作っていることに気付く。
「今日はやけに月が明るいな。眩しいくらいだ」
 一人呟いた。
「そうかい? 俺には暗い月に思えるんだが?」
 その意見に真崎も賛成だった。先ほどまで月が出ていることさえ分からなかったくらいで、最初に影を感じたのだって、
――どうして、光もないのに影があるんだ?
 と不思議に思ったものだ。
 しかし分かってみれば月なのだ。気がつけば、普通に明るい月ではないか。本当に気付かなかった自分が信じられなかった。
 それにしても、それを明るいと感じているのはどういうことなのだろう? 確かに真崎も途中から明るく感じてきたのだ。明るいという表現をしたやつも最初は普通に月明かりを感じていたのかも知れない。それが急に眩しく思えるのだから、
「今日はやけに月が明るいな。眩しいくらいだ」
 という表現になっても不思議はない。
 しかし、露天風呂は意識して明るくしていないように思える。月明かりや星空を堪能するための演出なのだろう。明るければせっかくの田舎の夜空を楽しむことができない。もちろん、そんなことは分かっているつもりで、暗い雰囲気を楽しんでいたのだ。だからといって明るくなったから露天風呂の価値が落ちるというわけではない。その証拠に少し明るく感じてきている月のまわりにも砂金を散りばめたように煌いている星が、無数に見えていた。
 入った時は我々だけの貸切だったのだが、
「そろそろ出ようか」
 といつもリーダーシップをとりたがるやつが一声掛ければ、誰もそれに逆らう者はいない。却ってその言葉を待っていたのだ。皆自分から行動したり、言い出すことのない連中の集まりなので、リーダーシップをとる方としても、願ったり叶ったりなのだ。
 着替えを終えて、露天風呂への入り口に掛かっている暖簾をくぐると、表で一組のカップルが名残惜しそうに、寄り添っていた。
 我々が表に出ると、ハッとしたように離れたが、すぐにホッとしたような表情になり、普通にお互いの暖簾の中に消えていく。きっと何かのきっかけが欲しかったのだろう。
 すっかりサッパリした真崎には、その光景は微笑ましいものにしか見えなかったが、普段であれば苛立ちを覚える光景だったに違いない。
――どっちが得したのかな?
 すぐに損得の問題にすり替えるのが好きな真崎は、またしても損得でものを見てしまったことに照れくささを覚えた。
 その二人を見たのはその時が最初だったが、一瞬だったので、その時は顔すら覚えていなかった。きっともう一度会わなければ、その時に会ったことすら覚えていないことだろう。
 その日は普段静かな連中も久々の旅行ということもあり、いつもよりたくさん飲んだようだ。夜中にはぐっすりと眠っていた。真崎もいつもよりもたくさん飲んだかも知れない。だが、酔いが一気にまわってきたこともあってか、すぐに眠ってしまったようだ。いつ眠ってしまったのか覚えていないが、記憶の中ではまだ宴会がたけなわだった。早く熟睡してしまったこともあり、中途半端な時間に目を覚ました。
 まわりはまだ宴会の雰囲気が残っていて、まるで戦場のあとのような荒れ狂った状態が残っている。
 時計を見ると、
「まだ六時前じゃないか」
 このまま寝てしまうのも中途半端である。かといって表に出かけるには一番寒い時間ではないだろうか。思案に暮れていたが、とにかく少し歩いてみたい気分だったのは間違いない。
 ロビーまでやってくると、誰もいなかった。フロントの前を通りかかるとちょうど奥に入っているのか誰もおらず、電気だけがついている。静かな通路にスリッパの音が響き渡っているが、誰もいないせいか、何となく虚しくさえ聞こえてくる。
 ロビーまで行くと、当然のごとく誰もいなかったが、新聞だけは新しいものに変わっていた。きっと早朝のフロントの仕事なのだろう。それを済ませてちょうど休憩時間なのかも知れない。
 新聞を取って読んでいたが、何しろ自分たちの街の新聞ではないため、完全に斜め読みになっていた。もっとも普段から真剣に新聞を読んでいるわけでもなく、その日は完全な暇つぶしであった。
 どれくらいの時間読んでいたのだろう。表がかなり明るくなってきていた。時計を見るとそろそろ七時前、さすがに小さい活字を読んでいると睡魔が襲ってくる。
 酔いは完全に覚めていた。暖房は入っているが、それでもさすがに平地に比べてかなり温度差があるのだろう。酔いを覚ますにはちょうどいいのかも知れない。
 玄関の自動ドアの開く音が聞こえた。かなり静かな設計になっているはずなのに、さすがにまわりが静かなせいか、
「ビィーン」
 という音が篭ったように聞こえてきた。篭って聞こえたのは、後から感じたことかも知れない。表を見ると朝霧で少し白くなっているのを感じた。
 開いた扉からは、人が入ってきたのだ。てっきり誰かフロントの人が表に出たのだと思っていたがお門違いだった。表から帰ってきたのはフロントの人ではなく、一組の男女である。しかもその二人には見覚えがあった。
――昨日、露天風呂の入り口ですれ違った二人――
 すぐに気付いたのは、予感めいたものがあったからだろう。
 後ろを振り向いて見ていると、二人は真崎に気付いていないようだ。寄り添うように中に入ってくると、こわばっているのか、身体を摺り寄せるようにして、握った手を離そうとしない。
――これだけ寒いんだ。表はたまらないくらい寒いに違いない――
 見ているだけで、寒さがこみ上げてくる。きっと二人は小刻みに震えているに違いない。それを考えると真崎の存在に気付かないのも当たり前だろう。寒さのため、まわりを気にする余裕などないはずだから。
 男の腕が女の腰に回っている。身を任せるようにして細い身体を男に預ける女、羨ましさを感じるが、自分はあんなカップルになりたくないと無意識ながら感じるのはなぜだろう。
――どうも普通のカップルじゃないようだ――
作品名:短編集83(過去作品) 作家名:森本晃次