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短編集83(過去作品)

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 さすがにもう会社に行かないといけない時間になっていた。どれくらいの間、二人のカップルを気にしていたのだろう? 壁に掛かっている時計を見てみる。
――まだ二分も経っていないではないか――
 十分以上は経っているような気がしていたが、あまりにも時間が経つのが遅い、頭だけがフル回転し、目の前が固まってしまったように思えたからかも知れない。それにしても時間の感覚が麻痺していたことは確かなようだ。
 自分の座っていたところで立ち竦んでしまった時間、まわりの音が遮断されたようになっていて、耳鳴りだけが残っている。手に握られたレシートがグッショリと濡れている。手に汗握るとはこのことで、とても二分程度で掻いた汗の量だとは思えない。汗は背中にもジットリと掻いていて、ひょっとして本当に十分以上経っていたのではないかと思えてならないくらいだ。
 レジまでくると、いつもは普通に清算してくれるバイトの女の子が、今日は一瞬真崎の顔を見つめたまま、立ち竦んでいる。
「どうかしたのかい?」
「いえ、ごめんなさい」
 声を掛けたので我に返ったのかも知れない。もし声を掛けなければずっとそのままではないかと思えるほど、声を掛けた瞬間、ハッとしていた。
 おかしな娘だなと思いながら表に出ようとレジの後ろを振り向いた時だった。レジから入り口に向かう途中に顔だけが写るくらいの鏡があるが、思わず覗き込むと、顔が真っ赤になっているではないか。どこから見ても自分とは思えないその顔、驚愕してしまうのも当然だ。
 確かにさっきから少し暑いとも感じていた。しかし、それは表の寒さから暖かい暖房の入った部屋に慣れる間の一時のことだろうと思っていた。それが違ったようだ。まるでゆでダコのような顔の割りに目は白い、少し気持ち悪いくらいだ。
 扉を開けると入り込んでくる冷たい風、今までにこれほど冷たいと感じた風はなかった。しかしそれも一瞬で、一回身震いをしただけで、後は熱く火照った身体に心地よい風となって感じるのだった。
 その日は仕事を終えると、いつもの隠れ家に行きたくてたまらなくなっていた。やはり同じような店に立ち寄ると、懐かしさがこみ上げてくるのだろう。
 仕事をその日の分を何とか定時までに仕上げ、会社を出た時はまだそれほど暗くはなかった。西日がビルの陰に隠れかけてはいたが、それでも太陽をまともに受けて眩しさに思わず手で庇を作ったくらいだ。
 歩き始めて少しすると、駅に向かうまでの道を右に曲がる。すると、西日を受けるのと反対側にできる自分の影を嫌でも意識してしまうのだ。
 影は長く、ビル影を這うように伸びている。その影の頭は、自分の身長よりも高いくらいで、影に見下ろされているような錯覚に陥ってしまいそうだ。
 自分の影なのに、他人に見つめられているように思うのは、今に始まったことではない。だが、それもいつもというわけではなく、特に西日に照らされた影の時に感じるものだ。
 朝日の時にはなぜ感じないのだろう?
 きっと忙しくて慌ただしい中で感じる余裕もないからに違いない。そう考えるのが自然だ。だが、それでも西日だから感じるというのも変なもので、いつも誰かから見つめられているという感覚があるからではないだろうか。
――被害妄想――
 その言葉は最近真崎の頭にこびりついて離れない。特に影に限らず誰かに見つめられているという思いは、気がつけば感じている。昼間喫茶店からの帰りに、無意識とはいえ、鏡を見たのはそのためだった。商談相手が先に帰っていなければ鏡を見るようなこともなかっただろう。
 真崎にとってまわりを気にすることは生活の一部になっていた。あれはいつからだったのだろう? そうだ、大学卒業を間近に控えた頃のことだった……。
 成績も中間くらいで、就職はそれでも何とか決まって、決まった連中で卒業旅行に出かけようということになった。しかし、決まっていない連中に気を遣って、あまり大袈裟にすることのないように、国内の観光地にすることにした。
 男女数人のグループで意見を出し合って決めたのだが、温泉がいいということになり、なるべく東京を離れたいという意見だった。そこで決まったのが、九州にある湯布院温泉だった。
 湯布院温泉は、全国でも有名で、芸術でも有名で、景色も絶景だということで有名なようだ。しかも結構観光地化されていて、温泉以外でも楽しめそうで、卒業旅行としては最高だった。
 飛行機で福岡空港まで行き、博多からは特急「ゆふいんの森」号というのが出ていて、博多から湯布院までは二時間半ほどで行ける。ちょうどいい電車の旅である。緑色のボディはまさに「森」そのもので、壮観である。
 一人ではないことが時間を感じさせることもなく、まわりの景色を楽しむにも二時間半という時間はちょうどよかった。長くもなく短くもなく、皆がそう思っていたに違いない。
 時期的には真冬だった。湯布院の街を見下ろす由布岳は真っ白で、湯布院の街もかなり東京に比べれば寒かった。ところどころから上がってくる温泉の湯気が暖かく恋しいものに見えてくる。
「やっぱりこの時期っていいわね」
 一緒に行った一人の女性が呟いた。彼女は普段あまり目立たない女性で、いつも一人後ろにいて、声を聞くことすら稀だった。皆彼女のその言葉を聞いて、もっともだと言わんばかりに舞い上がる煙を見ながら頷いていた。
 滅多に聞くことのない声だが、違和感はない。彼女は名前を飯島聡子といい、女性は皆下の名前で呼んでいたのに、彼女だけは皆から飯島さんと呼ばれていた。
 別に他人行儀というわけではない。落ち着いたところがあるので、敬意を表しているのだが、人によっては嫌味に聞こえるのか、あまりいい顔をしない時はある。やはりそれは特定の人に対してだけで、少なくとも真崎に浴びせられるものではない。
 宿に着いて、皆とりあえずの自由行動を取った。男性は皆意見が一致していて、部屋に入って落ち着いたら、まずは露天風呂、一番考えやすい行動に決まっていた。誰も異論を唱えるものもおらず、部屋に入り五分もしないうちに皆浴衣に着替え、露天風呂に向かっていた。
 女性陣は着替えもあるだろうから少し遅れることは想像できたが、きっと皆同じように露天風呂コースを取るだろうことは想像がつく。きっと後から来るに違いない。
 露天風呂からは、正面に由布岳の壮観さを一望できる。そのように設計されているのだ。湯気が出ているが露天なので、それほど充満している感じはない。最初は寒さを感じたがすぐに熱くなってきて、額からは汗が滲んできていた。
「やっぱり来てよかったな」
「そうだな」
 最初、就職が決まっていない連中に気を遣ってやめようと言い出したやつが最初によかったというのも皮肉なことだった。
 露天風呂に入るのが初めてな連中が半分はいただろう。実は旅行好きの真崎も露天風呂は初めてだった。学生時代の旅行は、いかに安く上げるかがテーマで、豪華にするくらいなら少しでもたくさんまわることを目的にしたかったのだ。
 日が暮れた中で浸かる露天風呂は、沸き上がる真っ白な湯気を目で追っていると、水に使っているせいか、身体が宙に浮いてくるように思えてくる。
作品名:短編集83(過去作品) 作家名:森本晃次