意識の封印
考えてみれば、この時期が一番楽しかったような気がする。ハウツー本を見ている自分がいじらしく感じられ、素直に真面目な自分をすごいと思うくらいになっていた。自己満足であることに違いはないが、基本的に竜馬は、
「自己満足は決して悪いことではない」
と思っていた。
「自分が満足もできないことを、人が満足してくれるはずもない」
という考えもあった。
押し付けだと言われるかも知れないが、押し付けも相手が中途半端にしか考えていないのであれば、背中を押すという意味で悪いことではないように思う。かなりの楽天的な考えだが、前向きであれば、それはそれで悪いことではないと思えたのだ。
小説を書き始めることに、もう少し困難を極めるのではないかと思っていた。最初の段階で挫折する人がほとんどだと本にも書いてあったが、いろいろ見ていると、
「小説というのは、基本的に何を書いてもいい」
と書かれていた。
自由でいいということだが、これが書けるようになって、実際に執筆に入ると引っかかってくることでもあった。
「自由でいいというのは制約がないだけに、融通が利かない。つまり自由という言葉の裏には、言い訳が利かないという意味もあり、却って制約がある方がいい」
という考えもある。
ただ、描き始めるまでであれば、そこまで難しく考えることはない。楽天的な人間であればあるほど、小説を書き始める時には有利なのかも知れない。
しかし、人間には欲というものがある。
小説が書けるようになると、プロを目指してみたくなるというものだ。
小説を書き始める時のもう一つの基本として、
「まずは完成させること」
というのがある。
つまりは、
「途中でやめてしまっては、最初からやらなかったのと同じ。最後までやり切れば、どんな内容のものであっても、やり切ったということに対して自分に自信が持てる」
ということである。
プロになるという欲を持つと、いろいろな新人賞に投稿し、結果を待っていたが、ほとんどは一次審査にも合格しない。審査の基準もまったく分からず、次への課題も見つかるわけではない。
しかも一次審査というのは、
「下読みのプロ」
と呼ばれる、売れない小説家の人や、アルバイトだったりが行っていて、要するに、
「文章としての体裁」
だけが論点になる。
どんなにいい作品であっても、体裁だけで振り落とされる。確かに体裁も整えられない作家が、果たしてプロとしてやっていけるかという技量の問題になってくるのだろうが、ちゃんと一次審査からプロの作家が見てくれていると思っていた自分には、興ざめしてしまうレベルであった。
皆そんなこと分かっていて、作家を目指しているのだろう。こんなことは当然のこととして割り切って、プロを目指している。ただ、竜馬はそれでは我慢できなかったのだ。
「だったら、プロを真剣に目指すわけではなく、書きたいから書いているという気楽な気持ちで書いていけばいいだけではないか」
と思い、趣味としての執筆を今でも続けているのだ。
さっき、趣味はないと言ったが、それは最初から趣味としてずっと気楽にやってきたものを趣味という意味で言っただけのことで、執筆のように、一度プロを目指そうと思って、挫折したことでやめるわけではなく、気楽にできるように残したというのを、普通に趣味と言えるのかを考えたからだ。
「お前は、自分の姿勢に対して神経質になりすぎだ」
と、二十代の頃に上司から言われたことがあり。その言葉の意味が分からなかったが、今であれば分かる気がする。きっと部下のことをしっかり見ている上司だったのだろう。今は移動で他に行ってしまったので会うことはほとんどないが、今から考えても、残念だった気がする。
――物覚えが悪い癖に、よく小説なんか書けるな――
と思っている。
実際に小説を毎日書き続けているのは、日課にするためというよりも、
「物覚えが悪いのでそれまで書いていたことを忘れる前に書いてしまおう」
という思いが強いからなのかも知れない。
小説を書くようになってからの竜馬は、
「アフターだいぶはあっという間に過ぎるのに、仕事中はなかなか時間が経ってくれない」
というジレンマに陥っていた。
それでも一日の終わりが小説を書いたことによる満足感と充実感で終えることができることが幸いしていた。眠りも以前に比べれば格段に快適になり、気が楽になるということがどういうことなのか、初めて分かった気がした。
その頃はまだまだ人生を諦めていたわけではない。今でも、
「本当に人生を諦めたのか?」
と聞かれると、どう答えていいのか自信がなかった。
ある意味、小説を書きながら自分の世界に入ることで、自分に問いかけている時間が増えたという意識から、まだまだ人生を諦めていないと思うのだった。
小説を書いていると、まるで夢の中にいるような錯覚に陥る時がある。夢に入る時が曖昧で、夢から覚める瞬間を意識できるという意味では、小説を書いている時と変わりはなかった。
小説を書きながら、我に返った時、急に脱力感を感じるのだが、その脱力感が目が覚める時のだるさを思い出させるのだった。
小説を書くのは、最初自分の部屋で書いていたが、変に気が散ることに気が付いた。元々小説を書けるようになったのは、
「話ができるんだから、書けるはずだ」
ということを感じたからだった。
会話シーンは自分が話をしているのを思い浮かべればいいのだが、場面やシチュエーションは、実際に見たものをイメージするのが一番いい。家で書くのは静寂の中になるので、落ち着いて書けると思っていたが、ある意味、静かすぎるのも却って気になってしまい、気が散る原因になってしまった。
しかも、まわりがまったくの静止画なので、描写やシチュエーションのイメージができない。それならばと最初は図書館に行ったが、却って気が散る。図書館もある意味自宅よりも静かであるが、人が多いので、ガサガサゴソゴソという音に気が散ってしまうのだった。
ファミレスや喫茶店であれば、人が話をしていることで気が散るかも知れないと思ったが、人の流れなどは一番肌で感じることができると思うと、
「ひょっとすると一番いい環境なのかも知れない」
と思った。
もちろん、うるさい中で馴染めなければ無理なことであったが、それを乗り越えると書けるような気がしてきた。
小説を書くということが苦にならなくなったわけではない。確かに喫茶店で書いていて、うるさいことには慣れてきたし、実際にイメージを膨らませることはできるようにもなってきた。
しかし、一日書く量を自分なりに決めていても、実際に書けることは書けるのであるが、そのために使う労力は結構なものだった。
自分の世界に入っている間は気にせずにできるのだが、その日の分をやり切ると、満足感とともに襲ってくる脱力感がハンパではなかった。
だから、次の日、仕事が終わって一段落してから小説を書ける時間がやってきたとしても、
「やっとこれで自分だけの趣味の時間に入れる」
という思いと、
「今日は果たしてその日の目標を達成することができるだろうか?」
という思いが交差する。